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あの場所へ、大人になった子供たちと−パート1

さていよいよ今週末に迫ってきた鈴鹿8耐について、切ないネタを書かせたら当代随一のMat Oxley氏の記事を例によってMotor Sport Magazineより。
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鈴鹿8時間耐久はこの日曜に40周年という記念すべき日を迎えることになる。この私も1980年代から90年代にかけて何度か8耐を走っている。最高位は1986年の6位だ。この時のペアライダーはヴェサ・クルタラーテでチームはホワード・リーズだった(訳注:「鈴鹿8時間耐久ロードレース開催20周年メモリアルブック」やMoto Racing Japanでは7位となってます)。この物語が書かれたのもその頃のことだ。1989年のレースで、私はフランス人ジャーナリストのジルベール・ロワと走って12位に入っている。その頃の8耐は最高の人気を誇っていた。一緒に走っていたのがレイニーやシュワンツ、ドゥーハン、ガードナーといったライダーだと知れば、その人気がどれほどのものだったかわかってもらえるだろう。

天気はいかにも日本の7月にふさわしいものだった。湿度は高く、気温は暑く、おかげで肺に入ってくる空気は誰かの使い古しのようで、そして全身から滝のように汗が流れ落ちていく。

しかしそんな文句は言ってはいけないいのだろう。ソファにもたれかかる私の両側からは二人の女性がきんきんに冷えたタオルを私の脚と上半身に当ててくれているからだ。そして私の片手にはやはりきんきんに冷えた飲み物、そしてすぐ手の届くところにスライスしたオレンジとバナナのボウルがある。日本人の医師が私の体をマッサージしてくれて、扇風機が私に冷たい風を送りながら、そこにある椰子の葉をゆらす。天国だってこの場所ほどは心地良くはないだろう。しかしこれからすぐに灼熱地獄でひどい目に遭わなければいけないことを知っている私にとって、この天国の門の内側を楽しむことはできないのだ。

ここで言う地獄とは鈴鹿サーキットのコースのことである。それが完成したのは1962年。設計者は悪魔である。だからこそ次の世紀になってもレーサーは眠れぬ夜を過ごすことになるのだ。

このサーキットはそれ自体かなり悪辣だ。これに加えて日本の夏が鈴鹿8時間耐久をダンテの神曲もかくやという地獄に変えるのである。このレースに没頭すればするほど、肉体的にも精神的にも立ちはだかるモンスターによって消耗していく。そして自分の周りを悪魔が恐ろしい笑い声を上げながら踊っているのを感じるのだ。死すべき運命にある人の子が恐ろしい場所に敢えて脚を踏み入れるのを笑っているのだ。

消耗しているのに気付かなくても、そこに確かに悪魔はいる。奴らは色とりどりのツナギに身を包み、145馬力のマシンにまたがっている。彼らの名前を知っているかい?教えてやろう。ウェイン・レイニー、ケヴィン・シュワンツ、ミック・ドゥーハン、クリスチャン・サロン、ケヴィン・マギー、ジョン・コシンスキー、って言うんだ。やつらはすごい速さで君を嘲笑しながら、ひどいやり方で抜いていく。君が彼らと張り合おうなんてバカな考えをおこしたら一巻の終わりだ。

こんなやつらと同じコースを走るなんて、物理の法則が自分以外の誰かにだけ味方する不思議な世界に入り込んだようなものだ。知った顔で「それくらいできる」なんてとても言えない世界。観客席にいれば、誰かが100万ドルをくれてワークスマシンに乗れたら奴らと同じくらい速く走れるのに、と信じ続けることもできたのに。

鈴鹿では1速で走るヘアピンでミック・ドゥーハンがホンダRVF750の両輪がグリップ限界を超えているのにスロットルを開けて、そしてフロントに荷重を掛けながら路面にタイヤ痕を焼き付け、タイヤスモークを上げながら私を抜いていく。それをシールド越しに眺める私は狐につままれたような気持ちだった。

黒いタイヤ痕が外側の縁石に向かってくっきりと光っている。20m。ドゥーハンが2速から3速にシフトアップする間ずっとだ。そしてRVFの強大なパワーを見せつけるようにタイヤが宙に浮く。フロントホイールは60cmも持ち上がり、そして着地する。ドゥーハンが4速にシフトアップして次の高速右コーナーに入っていったのだ。

ヘアピンからそこまでドゥーハンが走っていたのは緩い登り坂だ。しかし高速右の途中で頂点を過ぎるとコースは下り始める。私はまだ何が起こっているかわかるくらいには彼が見えるところにいる。彼のリアタイヤがトラクションを失う。こんどはものすごいバンク角だ。他の何百人もができなかったくらい激しくゴムが路面にこすりつけられる。誰よりも厚く、誰よりも濃く痕をつけていく。リアタイヤがアウトにどんどんはらんでいく。ドゥーハンはスライドコントロールのために目一杯逆ハンを切る。そして5速にシフトアップ。220km/h以上だ。すかさずマシンを起こして次の、さらに高速の右に備えながら鈴鹿の有名な左コーナー、スプーンカーブに入っていく。

私は、他の100万ドル級のワークス契約をもつスターライダーからも同じようなことを見せつけられることがある。彼らの真似をしようとは思わない。彼らから学ぶことだってできないだろう。私にできるのはせいぜい、彼らがとんでもなく速くて同じようなことをすればクラッシュするのが関の山だと理解することくらいである。だからこそ彼らは高給取りで、私はそうではないのだ。

しかし1週間だけ私はワークスライダーだったことがある。まあ正確には「ほぼ」ということだが。必要なものはほとんどすべて手に入った。ホンダの浜松の研究部門がチューンしたRC30(しかもフォークは削り出しだ)。このレースのために特注されたぴかぴかのツナギ。これにはスポンサーであるカワイスチール(高速道路の橋梁を建設している)のロゴがエンボス加工されている。ピットには日本人メカニックがたくさん。今回のチーム予算は8万ポンド(訳注:当時のレートだと邦貨換算1,800万円)だと聞いた。グリッドには60台のマシン。その内15台はホンダ、カワサキ、スズキ、ヤマハが送り込んだフルワークスのF1マシンだ。残りもセミワークスのミサイルで、プライベートチームだが乗るのは南半球やヨーロッパや米国から連れててきた錚々たるライダーたちだ。グレイム・クロスビーやカール・フォガティ、ロブ・マッケルニ、ポール・ルイス。エルヴ・モアノー、マルコム・キャンベルと言った名前がプログラムには踊っているのだ。プレッシャーは高まるばかりである。

レースの6日前に鈴鹿入りした時点で緊張は高まっていた。プラクティスは5日も予定されていたのだ。誰もがそれほどこのレースを大事に思っているのだ。GPでは3日しか用意されていないことを思えばわかるだろう。そして私の興味はすぐに鈴鹿のサーキットホテルやレストランにひしめくスーパースターから少しでも何かを得ることに移っていった。最初の夜はガードナーと夕食を共にした。しかし彼が話したがったのはこないだ手に入れたばかりの1700馬力のモーターボートのことだった。翌朝にはプラクティスが始まる。なのに彼が店でいちばん大きなビールを注文したのにも驚いたものだ。プロがやるなら私もやってもいいだろう。しかしガードナーが予選を走るのは水曜日、明後日だと気付いたときには後の祭りだった。

翌朝、ピットはワークスチームの日本人スタッフであふれかえっていた。表情からは何を考えているのか読み取れない偉い人たちが何を考えているかわからない目でチームを見つめている。決勝日には25万人のファンがやってくる。だからこそ8耐での勝利は500ccのタイトルを獲るのに匹敵するほど営業に影響を与えることになるのだ。鈴鹿のピットレーンを満たす興奮はコース上のそれに勝るとも劣らない。どのチームも自前のレースクイーンを用意し、どのピットにもライダー用ラウンジとホスピタリティがプレハブで用意されている。それもシンプルなものから異国情緒たっぷりのものまで様々だ。私たちのラウンジはかなり異国情緒に満ちていた。椰子の木や素敵なバーが用意されていて、ジャーナリストたちが飲みながらジルベールと私が地獄に向かうのを眺めている。

予選が始まる。予選では2分24秒を切らなければいけないのはわかっていた。レイニー(チームメイトはマギー、マシンはヤマハYZF750 ジェネシス)、ガードナー(ドゥーハンとホンダRVF750に乗る)。シュワンツ(ダグ・ポーレン+ヨシムラGSX-R750 )によるワークス製ロケットマシンを駆使して2分16秒あたりになると目されていたのだ。

フリープラクティスでは私は2分28秒台で走れていた。そして2分26秒台まで削ることもあった。その後2日間で残されているのは45分の予選セッションが2回。そこであと2秒削る必要がある。でなければ錚々たるスターたちの影に隠れてこそこそ逃げ帰ることになるのだ。しかもそのおかげで永遠に恥ずかしい思いをすることになる。私を蹴落としたスターたちはMotor Cycle Newsのために私がGPの毎レースごとにインタビューしている相手なのだ。問題はレースマシンに乗るのが3か月ぶりだと言うことだ。コーナーに飛び込んでスライドさせながら立ち上がっていくための自信などとうに失われている。それだけではない。レースをいつもしているわけではないということはセッティングにも苦労するということなのだ。年に2回ばかり外国語をしゃべらなければならないようなものだ。コミュニケーションを成立させるための語彙力が失われているのである。

計時セッションの第1回目。私は24秒371を出すことができた。これならグリッドに並ぶことができる。新品タイヤを装着したRC30に乗るロブ・マッケルニに行き会ったので、私はスリップにつこうと彼を追いかけてみた。ロブは後ろに着くように私に指図してくれたが、彼は21秒台で走っていて私にはとても着いていけなかった。それでも彼は数百メートル私を引っ張ってくれた。そして彼は肩越しに私を振り返る。濃いスモークシールド越しなのに私を馬鹿にして笑っているその表情が見えるようだった。残り10分。私はピットインしてリアのミシュランを新品ソフトに履き替える。

今度こそタイムを出さなければ。ここではワークスRVFに乗るドミニク・サロンを追いかけようとしてみた。しかし半周して「いける」と思ったとたんに私のRC30は冷却水漏れを起こしてしまい、ピットに戻ることになる。なんてこった。グリッドに並ぶかどうかは土曜の最終セッション次第になってしまった。

夕食の席でレイニーが調子を尋ねてくる。彼は上から目線にならないように気を付けている。私は彼にコースに出るたびに2秒ずつ縮めていると答える。もっと速く走れそうだ。

彼は笑ってこう言う。「ほんとのレーサーっぽいね。『もっといけるぜ!』ってあたりがね。いつか僕がインタビューしなきゃだね。まそれはともかく20秒台前半で走れればいいんじゃない」

レイニーが言うと「20秒台前半」がいかにも簡単そうに聞こえてしまう。その晩ベッドに横たわって鈴鹿の18個のコーナーを復習してみた。そして土曜の最終予選で2分22秒台で走れる気がしてきたのだ。しかし私は日本の狂った天気のことを忘れていたのだ。翌朝目覚めると台風がやってきていた。豪雨だ。外に出るのはとっととあきらめることにした。しかし発表されたグリッドをみて手首を掻き切るのはやめにした。

グリッド57番手。5番の差で最悪の事態を免れたのである。
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ちなみにこの時のOxley氏は12位でゴールしています。すげぇ!

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コメント

オクスレイさんって8耐にも出てたライダーだったんですね!
あの頃のブームは、そうそう蘇らないだろうと考えながらも、反面、猛暑でヘルメットを被るのを躊躇する今日この頃です。
そんな中、レザースーツを着込みトラックで競う選手には、ただただ敬意を表したいです。
RC30 OW01を街で見かけるだけで胸躍らせていた当時を思いださせてくれた記事でした。

投稿: motobeatle | 2017/07/26 15:29

>motobeatleさん
 しかも最高位7位ってはんぱないです。89年は予選57位から12位フィニッシュですし。そんなすごい人だったとは!

投稿: とみなが | 2017/07/26 21:47

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