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あの場所へ、大人になった子供たちと-パート2

パート1は予選まででしたが、今度は決勝のお話です。1989年の鈴鹿8耐の思い出。Mat Oxley氏の記事をMotor Sport Magazineより。
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鈴鹿8時間耐久はこの日曜に40周年という記念すべき日を迎えることになる。この私も1980年代から90年代にかけて何度か8耐を走っている。最高位は1986年の7位だ。この時のペアライダーはヴェサ・クルタラーテでチームはホワード・リーズだった。この物語が書かれたのもその頃のことだ。1989年のレースで、私はフランス人ジャーナリストのジルベール・ロワと走って12位に入っている。その頃の8耐は最高の人気を誇っていた。一緒に走っていたのがレイニーやシュワンツ、ドゥーハン、ガードナーといったライダーだと知れば、その人気がどれほどのものだったかわかってもらえるだろう。

決勝日の朝は昨日よりは少し天気が良かったが、それでもわずかな雲のおかげで気温は30℃と「涼し」かった。いつもなら鈴鹿は35℃まで気温が上がるのに加えて、息苦しいほど湿度も高くなるのだ。

11時30分のスタートが近づくにつれ熱狂が高まっていく。私の予選タイムはチームメイトのジルベールより少しだけ速かったので、ルマン式スタートは私が務めることになった。私の立っている場所から見るとトップのドゥーハンは遙か彼方だ。電解質の入ったエナジードリンクを二口ほど飲んで私は短距離走のためにスタートラインに立った。口の中はカラカラだ。心臓は早鐘のよう。そして脚には全く力が入らない。鈴鹿のグランドスタンドの電光掲示板が「GO」に向けてカウントダウンを表示している。

悪くないスタートだった。しかし2秒後には地獄が目の前に現れることになる。2台のマシンが混乱の中で衝突する。私は大きくコースを変えて飛び散る破片から身をかわす。しかし私の横を走る別のマシンはそのまま事故現場に突っ込んでいってしまった。目を疑うような光景だ。私の目の端にそのライダーがバイクに掴まったまま2m近くもひっくり返った姿勢ではね飛ばされていくのが映る。

信じられないことにマーシャルは1周目が終了するまでに現場を片付けていた。8耐は中断されるそぶりも見せない。次の周でもさらにクラッシュが起こる。何人かが調子に乗りすぎたのだ。すぐに気付いたのは、予選順位が私よりすぐ上のライダーたちはこのペースで3周以上走ることがでいないということだ。私は着実に順位を上げていった。

5周目あたりから暑さが私を苦しめ始める。額からの汗は雨のようにシールドを流れ落ち、それが目にしみる。一方で、息をするのにも苦労していた。ヘルメットの中の灼熱地獄はまるで頭をオーブンに突っ込んでいるようなものだ。そしてステップは火傷するほど熱く、ストレートではブーツを浮かせて走っていた。

いっそクラッシュしてすべてが終わればいいと考え始める。さらに2周ほどするとこんどはタイヤが暑さにやられ始める。クラッシュがまた続く。この状況に対処できないライダーたちだ。暑く滑りやすくなった鈴鹿ではリアタイヤを滑らせ続けなければそれなりのペースで走れないのだ。

私が唯一心配していたのはドゥーハンをはじめとするGP界のスターたちが私を抜こうとしているのを邪魔してしまうことだった。私の頭を悪夢が巡る。500ccでエディー・ローソンと熾烈なタイトル争いを繰り広げているレイニーを転倒させてしまうとしたら…。見出しが目に浮かぶようだ。「レイニーが足を骨折しタイトルを棒に振る。ジャーナリストに当てられたのが原因」。そこでレースが進んでくると肩越しに振り返るようになった。易々と私を抜き去ったドゥーハンはレイニーを従えて遙か前を走っている。1コーナーではコシンスキーがやってきてニースライダーの削れる匂いを私に浴びせかけながらトップグループを追走する。

最初の1時間が終わる頃、私たちは24番手まで上がっていた。マシンは素晴らしく速い。13,000回転までストレスなく回り、鈴鹿の難しいコーナーを軽々とクリアしていく。60台強のグリッドに対してRC30はなんと28台。ほぼ50%だ。RC30こそが神ならぬ身である私たち一般人が乗ることを許された最もワークスマシンに他ならないということの証明だと言えよう。

スティントの合間にはチームドクターがフルサービスで世話をしてくれる。手首を痛めていたので彼は鍼治療を施してくれた。一方私は熱いステップのせいで火傷した足の裏の皮をはがしている。マシンから降りている時間は、つまりジルベールが走っている最中と言うことだが、私はベッドでマッサージを受けながら水分補給をしている。もし必要ならすぐそこに酸素ボンベまで用意されている。さらに二人の若い女性ヘルパーが私がツナギを脱ぎ着するのを手伝ってくれる。しかもスティントのたびに新しい靴下を渡してくれるのだ。

隣のピットにいるドゥーハンも似たような扱いを受けていた。しかし彼は私ほどつかれているようには見えなかった。ついでに言うなら新しい靴下ももらっていなかった。ものすごいペースが彼らのトップの座を確固たるものにし始めている。差を広げるドゥーハンとガードナー。しかしドゥーハンが周回遅れと接触。ぐじゃぐじゃになった手の治療のために彼は病院に搬送され、もう一台のRVFに乗るドミニク・サロンとアレックス・ヴィエラにトップを譲る。

マッサージと鍼の甲斐もなく、マシンに乗るごとに私は疲れ切っていく。序盤のペースが維持できない。レースができる体とはとても言えない状態だ。シュワンツがふざけながらバックストレートで私を抜いていく。私に向かって両脚で挨拶しているのだ。次のスティントでは高速左コーナーで私のインにねじ込んでくる。馬鹿にするように頭を振っている。少し前私はガソリンがなくなった彼のヨシムラGSX-Rを抜いているのだ。スローダウンして窮地に陥った彼を笑いのめしてやりたかったというのが正直なところだ。

レイニーのチームもコシンスキーのチームも既にリタイヤしている。そんなわけで5時間目には16位に上がっていた。あとひとつ上げればポイント獲得だ。残りの時間、気温は下がったのに私の手首が厳しくなってくる。最後の2スティントは全く楽しめなかった。しかし夜になってフィニッシュの時間がやって来たとき、私たちは12位まで上がっていたのだ。ゴールした瞬間の開放感は、息を飲むような、同時に恐ろしいとでも言えるようなものだった。最後の1周を飾るのは巨大で派手な花火だ。その音が地面を揺らす。そして私たちがゴールラインに戻るころにはコース上は熱狂した大観衆で埋め尽くされていた。騒然とした群衆に飲み込まれる前にマシンをそそくさとピットに入れる。彼らは鈴鹿の思い出に何でもかんでも持っていこうとする。私の腕や脚でも喜んで持っていくんじゃないかという気持ちになる。

チームの祝賀会はモエ・エ・シャンドンのダブルマグナムで始まった。みんなと握手をして回る。河合さんはにこにこ顔だ。二人の女性ヘルパーは泣いている。翌朝、私たちは1000ポンドずつの賞金を手にしている。

まるでボクシングの試合に出たように頭痛がする。体はマラソンを何度も走ったように痛む。しかしプロのレーサーでいるのに慣れはじめてもいたのだ。
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これはMatの著書「The Fast Stuff」に掲載された多くの物語の一篇である。Kindle版もあります。
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モエのダブルマグナム…。バブル時代ですなあ。

ちなみにパート1では自信最高位を6位と書いてましたが、ご本人にツイッターでお知らせしたら即修正されてました。

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