« 2015ヴァレンシア日曜MotoGPまとめ:タイトル争いの勝者、敗者、そして破壊者 | トップページ | データを扱うということ:マッテオ・フラミニへのインタビュー »

2015MotoGP最終戦で何が本当に起こっていたのか

さて、今回もDavid Emmett氏西村章氏と並んで「読みたいジャーナリスト」の一人、Mat Oxley氏の記事をMotor Sport Magazineより。
============
これは誰にも言ったことはないのだが、今がその時なのだろう。正直に告白しよう。私はヴァレンティーノ・ロッシのファンだ。私のソーシャルメディアはこの数週間というもの毒を吐くロッシ教の信者に汚染されてしまった。彼らは私が事実に対して客観的であろうとしていることが犯罪的であると断罪していた。多くの読者が何年にもわたって尊敬しているような他のMotoGPジャーナリストも真実を追究しようとしたことでひどい攻撃を受けている。

私が彼のファンになったのは1996年の夏のことだ。その頃から彼は日曜の夕方にプレスルームに現れるようになった。ジャーナリストとジョークを交わし、そしてライダーには珍しくそれを楽しんでいた。その2年後、私たちは一緒に仕事をするようになった。私が彼のコラムの執筆を担当することになったのだ。日曜の夕方に彼をつかまえて(その当時でさえなかなかたいへんなことだった)、レースやその前の週に何をしたかといったようなことについておしゃべりをしたものだ。リオ・デ・ジャネイロのプールサイドでの会話では、ロッシはビールとシャンパンにまみれ、隣で友人やスタッフがプールに飛び込んでいた。彼が250ccのタイトルを獲得した数時間後の話だ。彼の話はいつでもおもしろかった。レースや人生を心から楽しんでいる様子が伝わってきたのだ。

私の書いた彼のコラムは世界中のバイク雑誌に掲載されたが、今読むと笑ってしまうほど素人くさいものだった。そしてそれがかえって良かったようだ。ロッシはレース後は必ず30分ほどはつきあってくれた。そして私はいつも彼にCDを持っていった。当時私はロンドンのクラブシーンに入り浸っていたのでドラムンベース(訳注:こんな感じ)のレコードを持参したのだ。世界を変えたゴールディのタイムレスとかそういうやつだ。「このゴールディって変な音楽だね」と彼は笑いながら言っていた。

そのさらに2年後、彼は私に自分の伝記を書かせてくれた。ロンドンのセント・ジェームズ・スクェアにある彼のマンションで何時間も過ごすことになったのだ。

私たちは彼の過去について語り合い、その隣では彼の親友であるウーチョ(サルッキ)がソファに横になっていびきをかいていた。またどこかのクラブで徹夜をしたらしい。その前の年にロッシが手にした500ccチャンピオンのトロフィーが旅暮らしで片付けもままならないサイドボードの上に鎮座している。

彼の伝記を書くためにイタリアにも行った。素晴らしい彼の父(彼は私の子供時代のヒーローでもある)と優しく明るい彼の母としばらく過ごしたのだ。彼の母はロッシの子供時代の面白い話をたくさんしてくれた。中でも最も私が感銘を受けたのは、ミニバイク用コースから帰ってきた彼がアドレナリンを出しっぱなしでしゃべり続けたということだ。ヴァレンティーノはレースだけじゃなくてパドックにいることがとても好きだったんですよと彼女は言った。彼はパドックを愛していて、だからこそここまで長くやってこられたのに違いない。

私がロッシを好きなのは、彼がレースでは戦士になるからだ。人間としてももちろん好きだ。明るく、おもしろく、心が広い。それは両親から受け継いだものだ。彼が人間として素晴らしいことを疑ったことはない。無慈悲で悪意に満ちたこの世界でトップに立とうともがいている内に多くのレーサーがそうした人間性を失ってしまうのとは違っているのだ。

250で素晴らしい走りを見せたロッシは、500でも抜群の走りをし、そして4stのMotoGP時代にホンダに乗ってからは誰も追いつけなくなってしまった。しかし本当は2ストローク500ccの剃刀の刃のようなスリルを懐かしんでいたのだ。

ジャーナリストであれば利害関係も偏見もなく、誰かに肩入れするようなことがあってはならないのは当然だ。しかしロッシの成し遂げたこと、そしてその人好きのする性格のせいで当時の私は彼を悪く書くことができなかった。競争が激しくなり、彼の無慈悲な一面が見え隠れし始めたときでさえ、私は気にしていなかった。そもそも彼のことを温和でおとなしいと思ったことなど一度もない。彼はバイクレーサー、つまり命を賭けて世界最速を争うスポーツの主役なのだ。王者の中の王者になるには、必要とあらば卑劣で自己中心的で悪辣にならなければいけない。笑顔で手を振る姿に騙されてはいけない。それはやる気になった暗殺者の見せる笑顔にすぎないのだ。

彼が最初にコース内外で激突した相手はマックス・ビアッジとセテ・ジベルノーだ。その二人はロッシにしてみれば楽な相手だった。そして次はニッキー・ヘイデンだが、2006年のタイトル争いの相手となった彼は本当の紳士であり、その年のロッシが不運に見舞われ続けたこともあって、二人の戦いはお手本となるようなフェアなものになった。2006年のヴァレンシアの素晴らしいバトルと今年のヴァレンシアの悲惨な結末を比較すると実に悲しい気持ちになってしまうのだ。

そしてケイシー・ストーナーが現れる。彼の才能はGP界最高の人気を誇るロッシに匹敵し、そして時には彼を上回る力も見せた。ロッシは実に頭の良いライダーだ。彼は若い世代によって自分のレース人生が脅かされるだろうことをわかっていた。若いライダーたちは彼にはない技術と欲望を持っている。次にやってきたのはホルヘ・ロレンソだ。ロッシは彼らのことを「命を狙って周りを回っている鮫」だと言ったことがある。

最後にやって来たのはマルク・マルケスだ。自分自身とそっくりなライバルがついに現れたのだ。マルケスは幼年時代からロッシを見て、そしてロッシを信仰してきた。マルケスが憧れであるロッシと同じような笑顔の殺し屋になったのも当然だ。

2008年のカタルニアでのことだ。既に少年レーサーとして名を馳せていたマルケスはあるスペインのジャーナリストと写真家に自分のアイドルに紹介してくれるように頼んだ結果、ついにロッシにミニカーを手渡すことができた。その時ロッシはこう言っている。「ああ、君があの勇敢なマルクだね…」

自分のアイドルに会ってはいけないとは良く言ったものだ。マルケスが現れるまで最も無慈悲なライダーはロッシだった。ライバルとのつばぜり合いではいつもロッシが勝利をおさめていた。ビアッジ、ジベルノー、ストーナー、誰もが彼の殺戮本能を感じていた。しかしロッシに追いつきたくて仕方が無い気狂いライダーが現れたのである。

フィリップアイランドでマルケスがロレンソを手助けしたという証拠は私にはみつからない。セパンでマルケスがそれをやった証拠はいくらでもあるが、それは彼の最優先事項だったわけではない。数日前に公衆の面前で恥をかかせたロッシにちょっかいをだしたのにはこういう考えがあったのだろう。僕がオーストラリアで脚を引っ張ったって思ってるんだろ?僕が本気で脚を引っ張ろうとしたらどういうことになるか教えてあげるよ。

当然のようにロッシは怒りを爆発させた。そして彼はグリッド最後尾に追いやられることになる。これで実質的に彼のタイトル獲得の可能性は潰えてしまった。彼も口撃を仕掛けたこと、そしてレース中にマルケスに仕掛けたことは間違いだったと認めている。「自分のラインを走らずアウトにマシンを持っていったことは後悔してますよ」。彼はそうヴァレンシアで言っている。結局セパンの木曜午後に自分がやったことでタイトルを失ったのだ。

私は今でもロッシのファンだ。そして私は歴史も好きだ。ロッシが日曜にタイトルを獲得していれば、それは歴史に残る瞬間になったはずだ。過酷で無慈悲なこのGPというスポーツで10回目のタイトルを獲る。しかも最初のタイトルから数えて19年目のことになるのだ。F1のミハエル・シューマッハの記録の11年のほぼ倍である。人間を超越した記録だ。モータースポーツ界だけではない。あらゆるスポーツを見回してもこんな記録はないだろう。

誰もが心から知りたいのは日曜に何があったかだ。ロレンソが優勝しタイトルを獲得した。マルケスは僅差の2位で、ダニ・ペドロサが3位に入り、ロッシはその遙か後方で、しかし26番手から見事な走りの結果4位でゴールした。

もしレプソル・ホンダの2台がロレンソを抜いていたらロッシがチャンピオンだった。しかしそうはならなかった。マルケスがロレンソを護っていた可能性はある。ではどうして最後までM1の後ろにぴったりくっついていたのか?彼のボディランゲージが(いつもの通り!)雄弁に語っている通り、最終ラップでのアタックを目論んでいたはずだ。おそらく最終ヘアピンだろう。そこで抜いておけばロレンソに抜き返されることはない。なぜ彼はそれなりの距離をとってロレンソに楽をさせなかったのか?なぜ毎周つつき続けたのか?誰もがその質問を思い浮かべ、誰もが自分なりの答えを出している。ロレンソのM1は加速時のグリップが良く、マルケスは立ち上がりで離されてしまって次のコーナーで仕掛けられなかったということは数少ない事実として挙げておこう。

ヴァレンシアが抜きにくいサーキットだということも指摘しておこう。低速コーナーが多く、コース幅は狭く、結果としてラインは一本だけで前のライダーの後ろを走るしなかないのだ。そして唯一のストレートに向かって立ち上がるコーナーはエントリーで極端にスピードを落とさなければならないようにできている。幅が広く高速で見通しの良いフィリップアイランドと正反対のコースなのだ。ヴァレンシアはコーナー脱出から次のコーナーまでの間に抜くのがとても難しいレイアウトなのである。トラクションコントロールとカーボンブレーキで武装した重いMotoGPマシンにとっては特にそうだ。過去9回のドライで行われたMotoGP決勝のうち、5回までもがトップは一度も抜かれないままゴールしている。一度もだ。

一夜明けた月曜、私は真実を探るためにパドックをうろついて、MotoGPに何十年も関わっているが利害関係のない第三者に話を聞くことにした。ワークスのエンジニアやチームマネジャーや元レーサーや現役レーサーやメカニックにだ。斧を磨いている相手は避けた(要するにワークスホンダとワークスヤマハだ)。

彼らには匿名の投票をしてもらうことにした。ロッシの非難が正しいと思うならロッシの欄に、マルケスがロレンソを守っていたとは思わないならマルケスの欄にそれぞれチェックしてもらったのだ。結果は接戦だった。何人かは「わからない」の欄にチェックをし、わずかだがチェックをしなかった人もいた。そのほとんどは質問をしたとたんに逃げるように去っていったライダーだ。つまりGPを最も良くわかっている人たちですら何が起こったのか判断しかねているということなのである。

ロレンソが7回目のポール・トゥ・フィニッシュでタイトルを獲得したという普通では達成できないもう一つの事実を見れば、前が空いてる状態でしかもロボットモードで走っている彼はとんでもなく抜きにくいライダーだということも言えよう。

2015年にもっとも速かったのは間違いなくロレンソだ。ロッシは雨のシルバーストン(彼の最高のレースのひとつだ)をはじめとして4勝を挙げ、もう少しでタイトルを獲得するところだった。彼の強みは状況に対応できるところにある。今年彼が犯した間違いはひとつだけだ。セパンのプレスカンファレンスでマルケスに対して口撃を仕掛けたことだけである。もし彼がその思いを自分の中にしまっておいたなら普通のレースになっていただろうし、ヴァレンシアではトップグループでタイトル争いができただろう。それも見応えがあったに違いない。

私はひとつのストーリーをもっている。根拠はまったくない。それはこんなストーリーだ。ロッシがどうしてもタイトルを獲りたかったのは亡き親友、マルコ・シモンチェリのためだったと。この話に少しでも真実が含まれているなら、気持ちが先走っていつもの冷静さを失ってしまったのも頷ける。そしてそれは自分のレースができなくなることを意味するのだ。

この数週間ろくでもないことが起こっていたし、狂信的なファンはロッシは神なのだから間違ったことなどするわけがないと彼を祭り上げていた。私はまだロッシのファンだがマルケスのことも好きだ。なぜなら彼はロッシと同じように戦士の魂を持っているのだ。

ロレンソの性格は私の好みとするところではないが、コースサイドで彼があり得ないリーンアングルでバイクを完璧に安定させたまま流れるようにコーナーを繋いでいく様を見ていると畏敬の念で満たされる。誰もあんな風にマシンを操ることはできないのだ。

黄色を身に付けた何千人もの観客からのブーイングに晒されても冷静に完璧なライディングができる彼の能力も賞賛したい。私はものすごい天の邪鬼でもある。だから彼の素晴らしさを理解できないファンが彼を嫌えば嫌うほど、私は彼を好きになっていく。

つまり私は全員が好きなのだ。私はバイクレースを見るのが好きで、とてつもない人生を送っている彼らのことが好きで、ドラマと混乱が展開されていく様子が好きなのだ。撃ち合いの無い戦争である。基本的に私は誰が勝とうとかまわない。自分にはどうにもできないことを望むのになんの意味があろう。もし私が何かの集団に属して盲目的な忠誠を誓いたいならとっくにバイクレースから離れてサッカーにいっているだろう。
============
そう!そういうこと!

|

« 2015ヴァレンシア日曜MotoGPまとめ:タイトル争いの勝者、敗者、そして破壊者 | トップページ | データを扱うということ:マッテオ・フラミニへのインタビュー »

コメント

GPを好きな人たちって基本的にそういうスタンスがあるように思いますw
私もホル推しですが、ヴァレやマルクの魅力に抗える訳もない。
陰は陽があるから生まれ、陽が強ければ陰も色濃く、そこで世界は完成するということと同じですよね。
朝が来てやがて夜が帳をおろすように、常に世界は変化と逆転を繰り返す。レースも然り。

そしてライダーは自分の中に狼を囲っていると思います。
キラキラとした笑顔や、人懐こい仕草、修行僧のようなストイックさは彼らのほんの一部分にすぎないわけで。
空腹に涎をたらし牙を剥き出す狼を放つ瞬間をじっと待っている。

私は生態系の観察をフィールドワークにしているのですが、彼らは本当に『いきもの』らしく美しい。
だから好きなんですよねぇ。

投稿: りゅ | 2015/11/13 06:21

翻訳お疲れさまです。
いつも楽しく読ませていただいています。

PIの一件から色々な記事、コメントをみましたが一番しっくりときました。
これで気持ちを切り替えて新しいシーズンを待つことができます。

投稿: SRX | 2015/11/13 10:24

いつも翻訳ありがとうございます。

「つまり私は全員が好きなのだ。」
「そう!そういうこと!」

結局、こういうことですね!

投稿: Nom | 2015/11/13 15:59

おかげさまで、西村章氏の他に、David Emmett氏、Mat Oxley氏の記事を読むことが出来ました。
今回も感謝です。

記者の記事をいつもは鵜呑みにできない捻くれ者の私ですが、Oxley氏のコメントも深かったです。

西村さんのコメントがいちばん怒りに満ちていたでしょうか。

投稿: mac | 2015/11/14 01:19

>りゅさん
 長く見てるといつの間にかそうなっちゃうんですよね。
 そして生態系観察!全然関係ないけどものすごく興味あります!!なんかこちらの思惑やストーリーと関係なく存在しているあたり、GPもそういうことなんでしょうね

投稿: とみなが | 2015/11/14 22:30

記者は本当はもっと批判したいけど義理がある分、少し躊躇している。
そんな気がするのは、うがった考えでしょうか?w

投稿: motobeatle | 2015/11/14 22:31

>SRXさん
 本当にいい記事でした。とても強い気持ちで愛を貫いてるのがすがすがしいです。
 そしてSRXって250?400?600?私の初めてのミッション付きバイクがSRX-4でした!

投稿: とみなが | 2015/11/14 22:32

>Nomさん
 ですです!私もそうです!

投稿: とみなが | 2015/11/14 22:33

>macさん
 今回の件で、私の大好きなジャーナリストのみなさんが微妙に怒ったり凹んだりしてるのも、実は興味深かったです。私はこちらの思惑なんて関係なくライダーは勝利を求めるってのは仕方がないのかなぁと思っていて、でも現場に近い人ほど、愛するGPには愛されるべき姿を見せてほしいんでしょうね。

投稿: とみなが | 2015/11/14 22:35

>motobeatleさん
 私はこの記事が私の気持ちにいちばん近かったので、そうは思わなかったですねぇ。「鏡」かもですよw。

投稿: とみなが | 2015/11/14 22:36

>とみながさん
あ、SRマニアの方なのかと思ってたらSRX-4にも乗ってらっしゃったんですね。
私はSRX400です。
セル付きのヘタレ(オーナーの方、失礼します)な方に乗っていました。
レプリカやSRVなんかにも乗りましたがSRXが一番取り回しが良くてもトルクもたっぷりあって乗りやすかったです。
あの流線型のフォルムも大好きでした。

投稿: SRX | 2015/11/15 17:38

>SRXさん
 とても素敵なバイクですよね。いまでもほしいです。

投稿: とみなが | 2015/11/16 22:54

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/69409/62666973

この記事へのトラックバック一覧です: 2015MotoGP最終戦で何が本当に起こっていたのか:

« 2015ヴァレンシア日曜MotoGPまとめ:タイトル争いの勝者、敗者、そして破壊者 | トップページ | データを扱うということ:マッテオ・フラミニへのインタビュー »