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ロッシと8耐

BS12 TwellVで8耐が今年は生中継されます!
というわけでもないのですが、SuperBikePlanetより、ロッシの8耐についての記事を訳出。
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大人になる前のヴァレンティーノ・ロッシはいくつもの理由で日本人ライダーと、そして日本そのものが大好きだった。子供の頃のロッシのあこがれの一人が阿部ノリックである。当時のだれもがそうだったようにあの特徴的なライディングスタイルの阿部が1994年の鈴鹿で優勝しかけたのを口を開けて見守っていたのだ。後に125ccレーサーとしてデビューするとロッシは「ロッシフミ」というステッカーをライディングギアに貼っていた。これはもちろん阿倍の名前である典史からとったものだ。

ロッシはアニメ風のステッカーが大好きで、しかも寿司が大好きでもあり、日本文化が大好きでもあった。そしてその気持ちはロッシが125や250でレースを始めると高まる一方だった。このクラスでは多くの日本人ライダーが走っていたし、日本人ファンも多くいたのだ。ロッシはもちろん世代を代表するライダーだが、日本人の若いレースファンもイタリア人と同様にロッシに魅了されることとなった。

そんなロッシが鈴鹿8時間耐久について知っていることと言えば、ほとんどはイタリアの雑誌かVHSで見るレースの断片から得たものだった。日本にある最高のレーシングコースである鈴鹿で開催されていることは知っていたし、ワークス同士の激しい争いが世界中からやってくるトップライダーによって繰り広げられていることも知っていた。ロッシは250のルーキーライダーだったが既にどこを走っても速く、そしてそれは大排気量4ストロークに乗っても同じだった。彼は250に参戦したときからいくつものチームに対して自分を8耐で乗せてくれと頼んでいた。そしてその願いはホンダと契約したことで叶うこととなった。HRCで8耐を走ることになったのだ。

しかし鈴鹿8耐を楽しむのに一番の方法はテレビで見るか本で読むかすることだと言われてもいる。WSBKのチャンピオンで8耐でも勝ったことのあるスコット・ラッセルはもっとはっきり言っている。8時間もレースをするのはサドマゾの世界なのだそうだ。8耐が最ももりあがっていた時期には勝利そのものがライダーにとって素晴らしい賞品だったが、代償も大きかった。暑さ、そして湿度との厳しい戦いは日本中のマスコミが注目することでライダーにとっては大きなプレッシャーだった。さらにGPシーズンの最中に日本に何回か渡り、数日間のテストをこなさなければならない。そして旅の疲れで必ず腹をこわす。というわけで鈴鹿8時間耐久の楽しさは急速に失せていくのだ。

ロッシと8耐の愛の日々は1年しかもたなかった。

ホンダが2000年の8耐でロッシと組ませたのはアメリカ人のコーリン・エドワーズ。彼は既に8耐での優勝経験があり、勝利のためには何をすべきかよくわかっていた。VTR1000(RC51)に乗ったエドワーズは序盤で他に圧倒的な差をつけロッシにバトンを渡した。あとはリードを守る程度に速く走れば充分だった。にもかかわらずロッシは他のマシンのバトルに巻き込まれ転倒してしまう。そしてあのエドワーズがロッシに言ったというせりふが出てくるのだ「ガキめ!あのf**kな走りはなんだよ」 マシンは修復されそしてまたエドワーズが乗って出て行った。しかし再びクラッシュし今度はマシンを完璧に壊してしまった。マシンは大破し一時は火に包まれたりもしたのだ。ロッシは後に言っている。「日本人がマシンを直して僕をまた走らせようとしていて、でも僕もみんなにそう言ってたんだけど修理が無理だったわかって、本当にうれしかったよ。あと8時間も走るなんてとてもやりたくはなかったからね」

そしてこういうことも言っていた。「8耐への愛はレース後ヨーロッパに戻る飛行機に乗る前にさめていたね。テレビでみるほどクールじゃないし、参加して楽しむタイプのレースじゃぜんぜんないよ」 鈴鹿8耐はライダーに多大な労苦を強いるもので、ロッシは自分の履歴書に「8耐優勝」の文字がなくてもなんとも思わなくなっていた。

しかしロッシにとって悩ましいことにホンダとの契約には2001年の8耐参加も含まれていたのだ。

2001年の7月には既にロッシはVHSや雑誌で8耐に憧れた少年ではなくなっていた。その年の夏にはロッシは世界的スターへの道を駆け上がっているところだった。彼が日本にやってきたときには8耐での勝利はどうでもよくなっていたのだ。2001年が彼の最後の鈴鹿8耐となった。そして彼は別人になっていた。前の年のロッシは若き反抗者で、彼と彼のとりまきはまるで動物園の動物のようだった。空港で日本人にひどい態度で接し、ホテルの土産物屋で盗みを働いた。堅苦しいと言われる日本人がどんな反応をするか見たいだけでだ。こうした行為は日本では非常にまれだ。日本人は困惑し、このスーパースターとその友人たちが万引きをしたり割り込みをしたりするのを見ても立ち尽くすだけだった。

しかし2001年に鈴鹿に戻ってきたときにはすべてが変わっていた。とりまきはおらず、万引きもなし。かの有名なバー、鈴鹿ログキャビンで酔っ払うこともなし。2000年にはエドワーズが鈴鹿のエキスパートで、ロッシは疑問が湧くたびにエドワーズのセッティングを参考にし、それに従っていた。しかし2001年の鈴鹿8耐の時にはロッシは既に500ccチャンピオンを獲ろうとしており、その年の終わりには11勝を上げることになるのだ。鈴鹿では素晴らしい速さを見せ、予選で83チーム中3番手につけた。ホンダのピットで驚きに口を開けてモニターを見上げるエドワーズの姿は今でも語りぐさだ。

2001年の8耐でのロッシのモチベーションは、もう2度と8耐を走りたくないというところにあった。そのためにこそ勝ちたかったのだ。もしクラッシュしたり優勝できなかったりしたら、HRCは彼が勝つまで8耐への参加を要望し続けたろう。

レース中盤で疲れ切った、しかしまだ速いエドワーズからマシンを受け取る前に、ロッシは自分が守るべきラップタイムを言い渡されていた。エンジンを酷使しすぎないようにしながらもトップ3を守ってレースを終えるためのタイムだ。

しかしマシンにまたがったロッシはすべての指令を無視してみせる。1スティント目が終わるとHRCの上級エンジニアがクールダウンルームで点滴を受けるロッシを訪れ、RC51からダウンロードしたデータを見せながら「どんなつもりでエンジンをオーバーレブさせた上にシフトも粗雑で耐久仕様のクラッチをすべらせすぎている」と叱ると、ロッシは自分の無知をわびて二度としないと約束した。

2001年8耐のロッシの終盤のスティントは実にすばらしかった。トップから30秒遅れで手渡されたRC51を10秒遅れまで晩夏してエドワーズに返しているのだ。とんでもないスピードである。エドワーズが最後のスティントを終えてロッシにマシンを渡すときにロッシは彼にこう叫んでいる「勘違いしないでね。もう二度と8耐にはもどらないよ!」

エドワーズとロッシは2001年の8耐で優勝する。自分がずっと憧れていたレースで勝てたのは素晴らしいことだが、同時に二度と8耐を走らなくていいというのも同じくらい嬉しかったとロッシは後に語っている。

そして8耐は非常に厳しいレースであり、結局2002年のプレシーズンまで体が回復しなかったとも語った。しかし2001年の8耐は心から勝ちたかったし、それでその後のシーズンが良いものになったとも語っている。
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そんなわけで今年はテレビ観戦の予定ですので、8耐観戦会もやりますよん。その内告知します。

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