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ヤマハレースヒストリー その3

ヤマハレースヒストリー その3がMotoGP公式サイトにアップされてます。
夏休み中スペシャルなのか、結構な頻度。こっちが息切れしそうですよ。

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1963年から1964年: グランプリ初参戦と初チャンピオンの巻

もしヤマハが日本のレースを制覇したのが単に流れ星のように一瞬の輝きだとしたら、250ccのワールドチャンピオンになどなれはしなかったろう。しかし実際には1963年に初勝利を収め、その翌年には世界タイトルを手にしたのである。

ヤマハのGPデビューは1961年5月のクレルモンフェランであった。この時の成績は125ccと250ccで8位、マシンは単気筒のRA41とツインのRD48。これがほとんど初めてと言っていいくらいの完全舗装路でのレースで、しかもこの時のGP参戦はあまり大々的なものでなかったことを思えば、それほど悪い成績とは言えないだろう。初参戦ではヨーロッパにファクトリーを持つこともなく、たった3台のトラックにライダー、クルー合わせて13人とマシンを積んでヨーロッパ大陸を廻っていたのだ。地球の反対側ではコミュニケーションもままならず、ホームシックにかかったチームと磐田をつなぐものは、繋がりの悪い電話とテレックスだけだったし、マシンのパーツはヨーロッパ中の空港で受け取るという有様だったのだ。


1962年のシーズンにはヤマハは新設計の250ccを持ち込んできた。RD48の発展型であるRD56はヤマハ初の戦闘力を持ったGPマシンであった。空冷ディスクバルブ2気筒のこのマシンは11,500回転で実に55馬力を絞り出し、ダブルクードルの"フェザーベッド"フレームで武装していた。

RD56は。すばらしく速いだけでなく、ハンドリングもよかった。伊藤史夫は最初の2戦で2位でフィニッシュした後、スパ・フランコルシャンでついにヤマハに初優勝をもたらした。しかもスナコ・ヨシカズとの1−2フィニッシュというおまけつきだった。

この勝利の陰には、スパの全開ストレートで起こったキャブ不調を徹夜で解決した事実が隠れている。伊藤は富士と浅間のダートで鍛えられ、そしてついには驚異的な189km/hという記録で勝利したのである。レース後、チームマネージャーのナイトウ・ヒロシは言った。「エンジンは生き物だってことを、ますます実感しました」

数か月後、ヤマハは栄光への階段をまたひとつ上ることになる。ハードライディングで知られるイギリス人のフィル・リードを1964年の250cc契約ライダーとして迎え入れたのだ。このコラボレーションはすぐに花開いた。リードは5勝を収め、ジム・レッドマンとホンダからチャンピオンの座を奪ったのである。1965年もヤマハとリードは勝利を収めた。ついに世界の強豪に肩を並べたのだ。
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このマニアックさ、誰が書いているんでしょう?日本なら中沖満氏あたりかな、と思うところですが。

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