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ヤマハレースヒストリー その2

ヤマハレースヒストリーその2がmotoGP公式サイトにアップされてます。

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1955年〜57年:まずは日本を制覇 の巻

1955年の富士登山レースにおけるヤマハの勝利は決してまぐれではなかった。この成功に気をよくしたワークスチームはその4か月後、日本でもっとも有名な火山の周囲を廻る浅間火山レースに4台のYA1改をエントリーさせ、1位から4位までを独占という富士以上の成功を収めたのである。現在まで続くヤマハとワークスホンダを含むライバルとの抗争がここに始まった。わずか数か月前には存在すらしていなかったヤマハという会社は、今や日本のレースにおいては倒すべき強敵となったのだ。

実はヤマハの創業は19世紀に山葉寅楠が楽器を作り始めたところまで遡る。これが有名な音叉マークの由来である。第二次世界大戦が終わり、ヤマハの幹部は将来を確固たるものとするため、別の市場を目指そうとしていた。自動車、三輪車、ミシンなども検討されたが、最終的には日本で急成長しているバイク市場に打って出るのがもっとも有望という結論に達した。しかし、そのころ国内には100以上のブランドがひしめき合っていたのである。当然のこととして、ヤマハの試みについてまじめに取り合わない販売店も少なくなかった。「ヤマハがバイクを作るだって?ドレミファソって音が鳴るのかね?」*と揶揄されもしたが、富士と浅間の後では誰もそのような冗談を言わなくなった。

大成功に終わったレースのデビューまでに約1000台が生産されたYA1以来、ヤマハのストリートバイクとレースは今日まで常に強い結びつきを持っている。ヤマハの初代ワークスチーム監督であるワタナベゼンタロウは言う。「最初の勝利は私たちにとって最高の広告になっただけでなく、いいバイクを作るための貴重なデータを与えてくれた」

その2年度、ヤマハはYA1を改良したYA2に加えてヤマハ初の250ccマシンYD1をもって第2回の浅間に戻ってきた。YD1は空冷ピストンリードバルブ2気筒のマシンで、115km/hの最高速を誇っていた。そして再びヤマハは浅間の王者となる。125では1位2位、250では1位から3位までを独占したのだ。日本を制覇したヤマハの次の目標は世界であった。
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*:当時の静岡弁では「ヤマハがポンポンを作るだって?ドレミファソってゆうだかしん?」

おまけトリビア:山葉寅楠が始めた会社は「山葉風琴製作所」。ちょっとロマンな名前でございますのことよ。

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