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ヤマハレースヒストリー その6

土曜も日曜も関係なくヤマハレースヒストリー その6がMotoGP公式サイトにアップされてます。ケニー・ロバーツ(当然シニア)登場!今日も右手にProgressive英和辞典、左手にマルボロブックで、ばりばり行きますよ。

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1978-1980:キング・ケニーとヤマハが3連覇の巻

70年代になってキング・ケニー・ロバーツがやってくるまで、GPはヨーロッパ人が支配していた。厳しいアメリカのダートトラックレースで鍛えられ、ヤマハXS650と750ツインで獲得した2度のタイトルをひっさげてやってきたキング・ケニーは、そのドリフト走行でGPの様相を根底から覆したのだ。同時に彼はGPサーカスに新たなプロフェッショナリズムを持ち込むとともに、ライダーの権利確立のために大いに貢献することにもなった。

1978年、ロバーツがGPに参戦した年にチャンピオンを獲得したことは、多くのGP関係者を驚かせた。皆、ロバーツがヨーロッパのサーキットの複雑さに慣れるには数年かかるだろうと言っていたからだ。しかしながらロバーツはいともやすやすと2年連続チャンピオンのバリー・シーンを破ってみせ、YZR500/OW35を、その年の一番速いバイクの座につけたのである*。

ロバーツはこのドリフト走行を驚くほど効果的に使って見せた。パワースライドが出るほどコーナーでマシンを寝かせたのだ。ロバーツは言う。「僕がコーナーでスライドを始めると、みんなが『おいおい、まじかよ、どうかしてんじゃねえの』って言ったけどね。でも元々はダートトラックで走ってたんで、全然OKだったんだ」 この過激なテクニックのおかげでコーナーでの脱出ラインが有利なものとなり、ロバーツは1979年、1980年と合わせて500ccでの3連覇を達成する。しかも79年にはウィンターテストで背骨を骨折していたのである。ライバルの多くが同じライディングスタイルになるのに、それほど時間はかからなかった。みなダートで練習しドリフトを身につけたのだ。今日ではスライドコントロールはすでに必須のテクニックとなっている。

3年間で12勝をあげたロバーツはさらに後の3年間で10勝を重ねたが、もう少しのところでチャンピオンを逃してしまった**。しかし、この間、ヤマハにとっても非常に重要な仕事を成し遂げている。テストライダーとしても優秀だったキング・ケニーは1980年にヤマハのアルミニウムフレーム開発に大きな貢献をしているのだ。この開発にはサスペンションメーカーのオーリンズも協力している。さらに1982年にはヤマハ初の500ccV4マシンを駆り、エディー・ローソン、ウェイン・レイニーによる6つのタイトル獲得につながるYZRの系譜がここに始まるのであった。
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*:ほんとのことを言うと、それほど易々とっていうわけではなく、ケニー110ポイント、シーン100ポイント(当時は1位15、2位12、3位10ポイントで、10位までポイントがつきました)という、割と接戦と言えなくもない結果でした。もっとも勝利数はケニー4勝、シーン2勝、アメリカ人でスズキのハネン1勝、オランダ人でスズキのハルトフ2勝、ヴェネズエラ人でヤマハのチェコット1勝、イタリア人でスズキのフェラーリ1勝なんで、ま、ケニーの圧勝にも見えます。ついでに言うならランキング3位以下は、チェコット、ハルトフときて、5位に片山敬済が入っています。ちなみにスズキがこんなに駆っているのは当時戦闘力のある市販500cc(というのがあったのですよ)を売ってるのがスズキだけだったからですね。というわけで、この76年から82年まではスズキがコンストラクターズタイトルを獲得しています。勉強になるなあ(って、マルボロブックにおんぶにだっこなんですが)。

**:これまた「あとわずか」ではないですね。81年はスズキのルッキネリが105ポイントでチャンピオン、2位はやはりスズキのマモラで94ポイント、で3位がロバーツで74ポイントでした。82年はスズキのウンチーニが103ポイントでチャンピオン、2位はクロスビーの76ポイント、3位にスペンサーが72ポイント、ロバーツは4位で68ポイント。そしていまだに伝説の年として語り継がれる83年。これは掛け値無しにあと一歩のところでチャンピオンを逃しています。全12戦のうち11戦を終えて、ロバーツ5勝で127ポイント、スペンサーは6勝で132ポイント。当時は1位15ポイント、2位12ポイント、3位10ポイントですから、最終戦サンマリノでロバーツがスペンサーに勝ってもスペンサーは2位でチャンピオンになるという微妙な戦い。ポールをとったロバーツはトップを走行しながらもスペンサーを押さえつつ、3位を走るチームメイトのエディ・ローソンが追いついてくるのを待ちます。ローソンがロバーツとスペンサーの間に入れば、同点かつ勝利数も同じながら2位の回数の差でロバーツがチャンピオンになれるからです。しかし、ローソンは前を行く2台に追いつけないまま。結局ロバーツ1位、スペンサー2位となり、2ポイント差で天才フレディ・スペンサーがチャンピオンになります。ここでロバーツを助けられなかったローソンですが、翌84年、さらに86年、88年とヤマハでチャンピオンを獲得し、さらに89年にはホンダに移籍してすぐチャンピオンという偉大なライダーに。ま、個人的にローソンが偉大なのはカジバに初勝利を(雨の中タイヤチョイスが奏功したとはいえ)もたらしたってところですが。

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コメント

ちょっと83年についてのコメントを訂正しました。もとは「フレディ5勝、ケニー5勝」って書いてましたが、11戦やって合わせて10勝にしかならないわけはないので、よく見たらフレディ6勝が正しかったです。

お詫びにおまけ
レース前、ケニーはモーターホームにローソンとマモラを呼んで、ヤマハ連合軍で作戦会議を開いています。一方、フレディのチームメイトで元ホンダのトップライダー、マルコ・ルッキネリは「タイトル争いに関係なく、僕は優勝を目指すよ」なーんてことも言って、ある意味、フレディは孤立無援の状態だったのです。それでもチャンピオンを獲得する。一方ケニーはこれで引退、という、様々なドラマの交錯する最終戦だったのでした。

投稿: 冨永 哲 | 2005/08/14 11:50

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