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FASTERサイト更新!

映画FASTERのサイトがちゃんとしてきました。ライダーのコメントやら予告編やらが入ってます。

へぇ〜「桜坂」のPVはマークニールだったのねん、てなことまで。

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チーム・ロバーツはV5だと

またまたcrash.netによればチームロバーツはV5の煤払い中だそうです。
KTMにエンジン供給をストップされて困っていたチーム・ロバーツですが、チェコGPはなんと去年モデルのV5を持ち出すらしいとのこと。さらにライダーのシェーン・バーンがKTMとの契約なんで、マシンはあっても乗る人がいない、ってんで、ジェレミー・マックウィリアムズ(41歳)もついでに煤払いして持ち込むかも、だそうです。いや、BSBでは現役なんですがね。
ちょっとがんばってほしいぞ。

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もてぎにV6サウンドは響くのか・・・・たぶんだめ

crash.netによればBlataのV6マシンはお預けだそうです。
既報の通り、本来は今週末の地元チェコGPでデビューの予定だったのですが、なんでも、マシンが完成しなかったとか。
一応フレームとスイングアームはできているらしいです。あとエンジンパーツもほぼそろってる・・・って、ことによったら、まだ組上がってもいないし、実走もしてないってこと??
ちなみにcrash.netでは「チェコGPではマシンが飾られるとのことであるが、実際のデビューは来年になるのでは」とのコメント。激しく同意でございますよ。

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ヤマハレースヒストリー その10

MotoGP公式サイトにヤマハレースヒストリー その10がアップされてます。今回は250cc編。
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250ccに君臨する の巻

フランス人オリヴィエ・ジャックが最終戦オーストラリアGPでチームメイトの中野真矢を破って2000年の250ccタイトルを獲ったのを最後に、ヤマハは30年にわたる250ccクラスでのワークス活動に幕を引いた。ジャックのタイトルはヤマハにとっては14回目の250ccタイトルであり、同時にコンストラクターズでも14回目のタイトルを確実なものとしたのである。

ジャックの乗ったYZR250は、そもそも80年代のYZR500を起源とするVツインエンジンを積んだ、優れたハンドリングのマシンであった。YZR500と同様に高剛性のデルタボックスフレームとなっていた。ライバルが強くなったことで市販TZ250ではチャンピオンを目指せなくなったたことから、ヤマハはすぐさまYZRをワークスマシンとして導入したのである。最初のYZR250は陽気なヴェネズエラ人のカルロス・ラヴァードだった。かれは優勝か転倒かという激しいライディングスタイルから「Careless Bravado(ミスをするけど勇敢なやつ)」と呼ばれていた。ラヴァードはTZに乗って1983年のタイトルを獲得し、さらにYZRでは数回の転倒にもかかわらず86年のタイトルを獲得している。

4年度、もう一人の天才がヤマハを250ccクラスチャンピオンにした。アメリカ人のジョン・コシンスキーがキング・ケニーの指導のもと80年代終わりにGPにデビューしたのだ。激しいライディングと大言壮語で知られるコシンスキーはデビューイヤーの1990年にチャンピオンを獲り、ヤマハに250と500のダブルタイトルをもたらした。その後コシンスキーは500に参戦している。

1993年には日本人の原田哲也がコシンスキーと同様にデビューイヤーでチャンピオンとなった。中盤戦での転倒を乗り越えて最終戦でチャンピオンをもぎとったのである。この時のマシンはTZM250と名付けられたVツインマシンであった。その後しばらくヤマハはワークス活動を行っていなかったが、1999年にフランス人のオリヴィエ・ジャックとそのチームメイトの中野真矢を擁して復帰することになる。そして2000年シーズンは、この2人がクラスを支配し、ジャックがわずか2ポイントのリードで最終戦を迎えたのである。ジャックは終始中野の直後につけ、最終ラップもあとわずか数百メートルというところで中野を抜き去ってみせた。ジャックが中野のスリップを出てゴールラインに到達したとき、差はわずか0.014秒しかなかった。

ストレートでは必ずしも最速とは言えなかったが、ライダーにやさしいパッケージングを誇り、ライダーは様々な雑念から解放されたことで、YZRは勝てるマシンとなったのである。
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はーい、93年の最終戦について語りたい人、よっといで〜。

いや、実に劇的でした。へレスでの親友若井選手の死を乗り越え、数度の転倒を乗り越え、迎えた最終戦ハラマサーキット。国は奇しくもヘレスと同じスペイン。原田が追うのは10ポイント差で前を行くカピロッシ。原田がチャンピオンを獲るためには原田優勝、カピロッシが4位以下という厳しい条件でした。しかもカピロッシが125でチャンピオンを獲ったときには、同胞のイタリア人ライダーのあからさまなバックアップを受けたという過去もあります。
しかし、実はあとになってわかることですが、この時原田が目指していたのは唯一優勝のみ。最多勝がほしかったと後に語っています。
その言葉通り、原田は一度も振り返ることなく、優勝。ドラマが見たい日本人は、ずるずる遅れていくカピロッシを抜くレジアーニやビアッジをひたすら応援していました。今思い出しても目頭が熱くなります。一方原田選手はそんな周りの思惑は関係なく、「初年度はチャンピオンを獲るつもりはなかったんで、別に特に感激も・・・」みたいなことを言ってのけて、これまたかっこよかったです。
うってかわって2000年は超悔しい年でしたが、実は見てる方は「ああ〜、そこで前にいちゃあだめだぁ〜」とテレビの前で叫んでいました。明らかにジャックは最終コーナーでスリップにつくのを狙ってましたから。それに対して中野選手は「ただ前を向いて走るだけでした」と、中野選手らしいコメント。さわやかな幕切れにみんなが納得でした。

ちなみに90年代、レイニー以降の500というか最高峰クラスのヤマハはどうかというと、コンストラクターズでは辛うじて93年にタイトルを獲得していますが、個人タイトルはドゥーハンとロッシにやられっぱなし。ま、そんなこともあって、250の記事になってるのかもですが。

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ライヌポさん

毎日楽しみにしてるライヌポさんですが、あらいやすさんとこの記事によればアクセスできなくなってるのは、単純に落ちてるだけみたいなんで、ちょっと安心。

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ヤマハレースヒストリー その9

MotoGP公式サイトにヤマハレースヒストリー その9がアップされてます。今回は予想通りウェイン・レイニーです。
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1990-1992: ウェイン・レイニーが再びヤマハに3連覇をもたらす の巻

ウェイン・レイニーとヤマハが最高峰クラスを支配していた時期は、それまでも何度かあったようみヤマハが最も強かった時代であった。ダートトラックの元チャンピオンはYZR500を駆って1990年、91年、92年と500ccクラスで3連覇を果たしたのだ。この時のライバルは、米国やオーストラリアで、やはりダートトラックをやっていたミック・ドゥーハン、ケヴィン・シュワンツ、エディ・ローソン、ワイン・ガードナー、ジョン・コシンスキーら、錚々たるメンバーだった。

同時にレイニーは責任感、プロフェッショナリズム、ライディングテクニックといった面で、新時代のGPレーシングの先頭に立っていたのである。彼をサポートしたのはキング・ケニー・ロバーツが仕切るヤマハワークスチームである。そしてそのYZR500は170馬力の2ストロークV4をわずか130kgの車体に積み込み、デルタボックスのアルミフレームと相まって時速321kmに到達する素晴らしいマシンであった。さらにチームロバーツとヤマハはデータ・ロガーやカーボンブレーキ、倒立フォークといった新技術を精力的に投入したのだ。

もちろん、こうした新技術にもかかわらず、この時代の500ccは猛り狂う獣であり、乗りこなすのに強い腕と心を必要としていた。このころロバーツは言っている。「この手のマシンを乗りこなすには生まれついての才能が必要なんだ」と。レイニーはまさしくそうした人間であった。思い切りアクセルをあけ、ロックするほどブレーキを掛けながらも、彼のライディングはスムーズで常に正確だった。レイニーは後にこう言っている。「あのころのレースは本当に激しかった。ライディングもね。もしホイールスピンがなかったら、なんか違和感を感じただろう*」

レイニーは最後までヤマハに所属し、1988年から1993年まで500ccで24勝をあげたが、クラッシュに見舞われ、胸部から下が麻痺してしまうことになった。その後、夕刊にもチーム・マネジメントの仕事のためにGPのパドックに戻り、ヤマハワークス500チームのために数年間仕事をしている。レイニーがタイトルを獲得した時代、ヤマハは日本メーカーとしては初めてYZRエンジンをプライベーターに供給するという快挙を成し遂げている。これは500ccクラスの参加チームを増やすためであった。常にヤマハはモータースポーツになんらかの貢献をしているのだ。

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*:原文では「if my rear tyre wasn't spinning, I didn't fell right」ですが、たぶん「〜feel right」の間違いかと。

ふと気づいたんですが、イギリス人が書いてますね。ということはアラン・カスカート氏かマイケル・スコット氏あたりかしらん。

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ヤマハレースヒストリー その8

MotoGP公式サイトにヤマハレースヒストリー その8がアップされてますよ。今回はエディー・ローソンです。
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1984-1988:さらに勝利を重ねるYZRの巻

ケニー・ロバーツの衣鉢を継いでヤマハ500cc軍団の先頭に立ったのがエディ・ローソンである。500ccデビュー後、わずか2年目の1984年にタイトルを獲ると、さらに1986年、1988年にもヤマハでチャンピオンになっている。

ローソンの500ccでのキャリアは、ホンダのフレディ・スペンサーとの戦いの歴史でもある。それはカリフォルニアから来たクールな男とルイジアナ生まれの信心深い少年との戦いだった。ローソンは非常に知的なライダーであり、一見スムーズな、しかしその実、電光石火のライディングスタイルから「ステディ・エディ」と賞されていた。アメリカのダートトラックレースとスーパーバイクで鍛えられたローソンはミスを犯すことなくコンスタントに走るということをやってみせたのだ。

ローソンはGPでの最初の5シーズンで26勝をあげただけでなく、ヤマハYZR500の技術的進歩についても主導的な役割を果たしている。ヤマハV4で初めて用いられたリードバルブインダクション*や、増加するパワーに対応するためのデルタボックスフレーム開発などがこの時期行われている。1988年にはYZR500は150馬力以上を発揮し、その後もパワーを上げていった。しかし、さらなる細部の詰めによりYZRは80年代後半を通じて戦闘力を維持したのである。とてつもなくクイックな操縦性を持つ500ccマシンの中にあって、そのライダーフレンドリーな操縦性は特筆すべきものであった。スムーズなキャブレーションを実現するためにV型エンジンのバンク角はワイド化され、さらに「ガルウイング」と呼ばれるスイングアームによりエキパイのとりまわしをより効率的なものとしている。

ローソン時代のヤマハは、何台ものYZR500を、いわゆるセミ・ワークスと呼ばれるチームに貸与している。こうしたマシンのための資金は新世代の国際的スポンサー**によってまかなわれていた。彼らは増加するTV視聴者を狙っていたのだ。こうした資金のおかげで、ワークスチームと同程度の戦闘力をもつマシンを維持できたのである。ヤマハのこのやり方は非常にうまくいった。1986年から1988年までメーカータイトルを連続して獲得したのである。88年には年間ランキング上位6人のうち5人がヤマハのライダーだったのだ***。
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*:すいません、わかりません。2stに詳しい方、どなたかご教示を!
**:はい、ご想像の通りタバコやさんですね。マールボロ、ゴロワーズ、ラッキーストライク、ロスマンズ等々・・・。
***;1位ローソン、2位ガードナー、3位レイニー、4位サロン、5位マギー、6位マッケンジーのうち、あれ?2位のガードナーと6位のマッケンジーがホンダなんで、6人のうち5人、というか上位5人のうち4人、っつーのが正確では?

えー、たぶんこのあと90-92年のレイニーの3連覇の話があって、低迷期を経てロッシにいくんで、あと2回くらいですかね。

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一発屋伝説(リクエストがあれば訳します)

MotoGP公式サイトに一発屋伝説っつー記事が出てます。
1974年のホッケンハイムで生涯唯一の勝利を記録したEdmund Czihakというライダーを軸に、何人かのライダーを紹介しています。

えー、それなりにおもしろそうですが、ここんとこ連続して長文アップ中なんで、リクエストがあれば翻訳します、ってことで許してつかぁさい。

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翻訳なのか、それは?

クリニカ・モビーレの歴史の和訳がMotoGP公式サイト日本語版アップされてたんで、私の努力は無駄だったかと一瞬がっかりしたんですが、ファン・パブロ2世って、誰よ(笑)。いや、間違ってはいませんよ。ぜんぜん。でもそれは翻訳とは言いません。
(スペイン語から訳してるんでしょうね。ドルナはスペイン企業だし)

自慢げに聞こえたらそれは私の本意ではないのですが、それなりに地道に(かつ勝手に)翻訳しちゃう意味もなくはないなあ。

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Faster 監督インタビュー その2

FASTER監督 マーク・ニールにインタビューその2でございます。
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Q.事故にも出会っていますが・・・。
A.実は、撮影をはじめてから何ヶ月かはギャリー・マッコイへのインタビューを躊躇するようになった。だって僕らのせいで彼が事故にあっているように見えたからね。記録をみるとわかるけど、2001年のカタルニアから撮影を開始することになってたら、その1か月前に手首を骨折したし、僕らが数か月後撮影を休んだら彼は復帰するしね。それに2002年のプレシーズンテストでは最速集団の一人だったのに、撮影準備を開始したら、転倒で骨折したり。しかも僕らの撮影がすすむにつれて、足の状態は悪くなって、撮影が終了したら完治したんだよ。で、2003年は怪我知らずさ。僕らが撮影してなかったからね。おまけに2003年の12月にアンドラでインタビューをしようとしたら(これが「FASTER2」の最初の撮影だ)、なんと腕をつってるんだ。スーパーモタードで転倒して骨折したんだって。

最悪だったのは、日本GPの予選の時に、僕らが放送席でジュリアン・ライダーとトビー・ムーディを撮っていたら、ギャリーが転倒したんだ。転倒している彼を見て、トビーが「動いてないぞ」と声を上げた。彼が運ばれていくのをみるのはすごくつらかったよ。カメラを置いて泣いていたかったくらいだ。でもマッコイは自分で担架からおりて、足を引きずりながらピットに戻っていったんで、何分か後には、彼がぴんぴんしてメカニックと話しているのを撮影できたんだけどね。

そういうときは平成ではいられないね。いつ何時、不幸にみまわれるかわかりゃしない。冷たい風の吹くコースにライダーが横たわっているのを見る恐怖ってのはスピードの快感にいつもついて回るものなんだよ。

Q.映画の中ではいろいろな人が出てきますね
A.だいたい70人くらいにインタビューしたかな。そのうち20人くらいは1回では終わらなかったし。インタビューは結局700ページ分くらいになった。

ライダーだけでなく、さまざまな種類の人が様々な仕事をしているこの独立国を映像にしたかったんだ。お医者さん、写真家、メカニック、トランポの運転手、ガールフレンド、親戚縁者、ヘルメットの技術屋さん、コース整備の人、ファン、ほんとにいろんあ生活があって、その中でいろんな国の言葉が話されている。それなのに、たいていはみんな仲良くやっていて、これってすごいことだと思うよ。

Q.ドクター・コスタという素晴らしい人物も撮っていますね
A.何年も前から名前だけは聞いていただんだ。ドクター・コスタは、パドックではもう神話の域の人だ。それだけじゃなくて、ほんとうにいい人だよ。彼についてはいろいろな意見があって、チームによってはライダーを近づけないところもあるし、逆にロッシなんかは、ドクター・コスタのことを医者というより魔術師かなにかの不思議な力を持った人だと見ているしね。

ドクター・コスタに、子供はいるか、って訊いたときのことだ。彼はそのときクリニカ・モビーレにいたライダーたち(この時は幸いそれほどひどい怪我ではなかった)を指さして「彼らが僕の子供たちだよ」って言ったんだ。確かに偉大な父親であることは間違いない。理想の父親と言ってもいいだろう。無謀な挑戦をしようとしているときに励ましてくれて、失敗したときには慰めてくれる。ドクター・コスタのことをどう評価しようとも、MotoGPに彼がいなかったら、今とは全然違うことになっていたことは間違いない。医師というだけでなく、ある意味MotoGPの精神的指導者でもあるんだ。モーターサイクルレースというのは、死に完全と立ち向かうスポーツだし、ライダーが死と戦おうというときに、ドクター・コスタほど頼りになる人はいないんだからね。

Q.ジャーナリストのことも撮影してますが、世界中に何百人もいるなかから、どうやって選んだんですか?
A.どんな仕事をしているか僕が知っていて、しかもその仕事を気に入っている人を追いかけてみたんだ。僕はマイケル・スコットとジュリアン・ライダーを読んで育ったんで、まずはジュリアンを追いかけることにした。そしたら自動的に、あのトビー・ムーディにたどり着いた。大事なのは、彼らの話がとてもおもしろくて、さらにレースに情熱を持っているってことだ。この映画ではマスコミ人というよりグランプリワールドの一員として描いているけどね。

Q.この映画をとるときに、特に大変だったことは何ですか?
A.時間不足だ。軍隊並みの効率で撮影に関わるあらゆる要素を計画しておかなければいけないんだ。だって準備ができていないからって、待ってくれる人は誰もないからね。あとは騒音かな。ばかでかい音がずーっと鳴り続けているんで、まともに頭が働かないんだ。それと天気だね。死ぬほど暑いか、凍えるほど寒いか、そうじゃなきゃ雨だ。そうそう時差ぼけもだね。たいてい1カ所に2、3日しかいないし、それぞれの撮影場所はとんでもなく離れてるときてる。つまり僕らはMotoGPの住人と同じように世界中を回っていたってことなんだ。2週間くらいで国と国を渡り歩く騒音に満ちあふれた小さな村に彼らは暮らしているんだ。おかげでストーリーに一貫性をもたせたり、何を撮りたいかについて強い気持ちを持ち続けるのが大変だったよ。僕らは、いわば統制のとれた混乱ってやつとずっと一緒に行動していたからね。

Q.特に助けになった人はいますか?
A.パドックではみんなが助けてくれたよ。すごいことだよね。でもMotoGP関係者以外にも、撮影後にすごくお世話になった人もいる。その一人がユアン・マクレガーさ。最初から彼にナレーションをやってほしかったんだ。正真正銘のバイク好きだってことは知っていたし、きっとこの映画が気に入ってくれると思っていた。でも、ユアン・マクレガーにこの映画のナレーションをやってもらおうって考えることと、実際にどうやってアプローチするかってのは全然別の話だ。彼のエージェントやらマネージャーやらは、彼らの大スターが汚らしくて危険なバイクに近づくなんて考えたくもないんだよ。だからユアンに近づくには、そういう人種を避けて通らなきゃいけない。何ヶ月も失敗を繰り返した後、最終的に彼の友達の友達って人と知り合えて、やっとアラバマでビッグ・フィッシュを撮影中のユアンに映画のラフカットを観てもらえることになったんだ。2003年の2月のことだ。その何ヶ月も前から、ドルナにも他のいろんな人にも「ナレーターはユアン・マクレガーにする予定だ」って言ってたんで、思惑通りにいかなかったらどうしようって、すごく心配になった。とは言え、だらだら悩んでいてもしょうがない。FedExでビデオを送ったよ。翌日うちに帰ってみたら、2、3杯ひっかけた後のヴァレンティーノ・ロッシみたいな甲高い声のメッセージが留守電に入っていた。「マーク、映画を観たぜ。すげえいいじゃん。気に入った。最速の・・・」で、そこで声がまともになって、「マーク、ユアン・マクレガーです。すごく気に入りました。是非ナレーションをやらせてください」。1週間後にはアラバマ州バーミンガムのブートウェルスタジオで録音をしてたよ。その1か月後に映画は完成したんだ。大スターのナレーション付きでね。
それだけじゃない。ユアンは、「猟人日記」のプロモーションのためにやってきたカンヌ映画祭で、わざわざ時間を作って目抜き通りをMotoGPの連中(ロッシに、マッコイに、カピロッシにホプキンスにエドワーズにジャックにホフマン!)がGPマシンで走るのに併走してくれたんだ。僕らはハリウッドのお偉方が何事かと目をむいている中、高級ホテルの前を信じられないくらいの音をたててタイヤスモークをあげて見せた。マスコミは大喜びさ。カンヌでこんな派手な宣伝スタントは見たことないってね。
ユアンはお金のためじゃなく、この映画とバイクへの愛のためにやってくれたんだと思う。「FASTER」がどれくらいヒットするかはわからないけど、ユアンが参加してくれたことは成功への鍵には違いない。それ以上に彼が参加してくれたことはびっくりするようなことだしね。MotoGPの中に入り込むことができて、ユアンは本当に楽しそうだったし、彼のおかげで「FASTER」とMotoGPに関わる誰もが幸せな思いをしたんだ。ありがとうよ、相棒。

Q.どんなメディアを使ったんですか?
A.16mmフィルムに、ハイビジョン、DVカム、スーパー8と、いろんなものを使ったよ。僕らが撮った分だけで200時間くらいになるかな。さらにバルセロナで行った別の編集作業で、ドルナ貸してくれた何十本ものテープの中から6時間分くらいを選んでいる。

Q.それほどのフィルムを使って編集するのはたいへんだったでしょう。
A.ロサンゼルスの編集スタジオで週に6日間、6か月ぶっ続けで編集したんだ。しかも1日10時間作業でね。作業にかかった最初の頃は、編集のロシェル・フォードはモーターサイクルレースのことを何にも知らなかったけど、いまじゃあすっかりハードコアなファンになっているよ。編集作業はみんなでやったんだけど、おもしろいことに意見が分かれることはなかったね。

Q.インタビューした相手からはこの映画に対して何か感想はありましたか?
A.ケニー・ロバーツ(キングの方ね)に2003年のイギリスGPで会ったら、こう言っていた。「あんたがクソ映画を作ったって聴いたけど、観てみたらそんなに悪くなかったよ」ってね。他の人はもっと褒めてくれたよ。

Q.ドルナは何て言ってます?
A.実は「FASTER2」を作ることになっているんだ。だからきっと気に入ってくれたんだと思うよ。

Q.最後の質問ですが、あなたは何にお乗りになってるんですか?
A.乗れるものなら何でも。せっかく映画を撮ったんだから、誰かが「MotoGPマシンに乗ってみないか」って言ってくれるんじゃないかと待ってるんだけど、まだそういう話はないねえ。LAで乗っているのはBMW1150GSだ。素晴らしいオールラウンダーだし、峠でもびっくりするくらい速いんだ。レプリカに乗ってるライダーに恥をかかせるにはもってこいだね。

実は80年代の初め頃にロンドンでバイク便をやっていたことがあって、そのときはシティ(ロンドンの金融街)からヒースロー空港までおんぼろのホンダCX500で25分を切ったという社内記録を持っていたよ。でも息子にはバイク便をやるくらいならレーサーになってほしいね。よく死ななかったと本当に思うよ。
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事故の話やらドクター・コスタの話は、大治郎のこともあるんで、冷静には読めませんね。

いずれにしても、レース好きが撮ったレース映画、みなさん是非!
GPファンじゃなくてもユアン・マクレガーのファンの方、是非!

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「FASTER」監督インタビュー その1

FASTER監督 マーク・ニールにインタビューってのが公式サイトに載ってました。が、訳し始めたら長いのなんのって。なので、今日は途中まで。明日元気があったら続きをやります。

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Q.どうしてこの映画を撮ろうと思ったのですか?

A.簡単に言ってしまえば、今まで誰もMotoGPの映画を撮ってなくって、そりゃあおかしいだろう、と思ったということかな。ひどくばからしい映画はあったけども。最近のハリウッドの映画は「Biker Boyz」とか「トルク(こっちは日本の映画評サイトにリンク)」みたいにパロディ映画としか思えないようなものばかりだしね。

2001年2月のIRTAテストでパドックに入ったときに、これまでの映画が作ってきた悪いイメージってものを痛感したんだ。エグゼクティブプロデューサーのイアン・マクラーレンが僕をスズキチームのボスであるギャリー・テイラーに紹介したときのことだけど。「マークは映画監督でして、これからレース映画を撮ろうとしているんです」ってイアンが言ったら、ギャリーは一歩後ずさって手でバッテンをつくったんだ。まるで僕らが吸血鬼か何かみたいに。そしてつぶやいよ。「Silver Dream Racer...」ってね。あれは僕も観たけど身の毛もよだつような70年代映画だった。こりゃあ相当たいへんだって、そのとき身にしみたね。

それでもこの映画を撮りたかったのは、まともな映画がこれまでなくって、でも世界中に僕みたいに本当にきちんとした映画が観たいと思っている何百万人ものバイクファンがいるからなんだ。それ以上に、僕らが大好きなバイクレースというスポーツを、時速100マイルで膝スリしたことなんかないみんなに観てもらって、悔しがらせたいってこともある。それってすごくクールなことだと思うよ。

Q.どうやってそれを実現したんですか?
A.まず「FASTER」はインディーズ映画だってことだ。これは是非理解しておいてほしい。そもそもバイクの世界は一匹狼でなりたっているんだ。これは「乱暴者」のマーロン・ブランドからヴァレンティーノ・ロッシまで変わっていないことだ。だから「FASTER」はそういった独立心を持った人々に向けた、独立心を持った人々の映画だし、これを撮った僕らも独立心を持っているってことさ。

始まりは1988年、LAでのことだ。そこで僕はこのプロジェクトを実現するのに必要な人と出会った。その中の一人がイアン・マクラーレンで、彼は実は90年代にピーター・クリフォードといっしょにWCMを立ち上げた元レーサーのボブ・マクラーレンの息子なんだ。イアンにとっては初めての制作ってことになる。彼はインディーズ映画での資金集めが得意で、おかげで大スタジオやら制作会社やらに頭を下げに行かずに済んだんだ。それにイアンはケニー・ロバーツやミック・ドゥーハンに僕らを紹介してくれるという「危険も冒して」くれた。幸いこうして映画も完成したし、まだパドックを大手を振って歩けるんだから、彼の信頼に応えることができたってことだろうね。でも彼に最も感謝すべきことは、自分が作りたいような映画が完成したってことなんだ。

資金が潤沢にあったわけじゃないけど、創造の自由は確保できたよ。ぼくらに指図するような制作委員会やら会社があるわけじゃなかったからね。GPチームのように、僕らは小さいけど何年もいっしょにやってきた専門家の集まりだったんだ。僕は編集のロシェル・フォードと6年間いっしょにやっていたし、撮影監督のグラント・ギーや音楽のtomandandyとは12年もいっしょなんだよ。つまりはそういうことさ。100%クリエイティブなライディングで、スーツ男がコースに立ってるなんてことはなかったんだ。

Q.この映画の始まりがアメリカってのは奇妙に思えるのですが?
A.僕もまさかそんなことになるとは思ってもみなかった。1997年に生まれ故郷のイングランドを離れてロサンジェルスにやってきたんだ。イングランドではバリー・シーンとかニール・ホジソンってのは誰もが知ってる名前なのに、アメリカに来たらバリー・シーンはおろか、ケニー・ロバーツもウェイン・レイニーもその他のバイクの神様も「誰それ?」って感じなんだよ。アメリカ人の神様もたくさんいるのにね。もちろんアメリカにもバイク好きは何百万人もいるんだけど、まだアンダーグラウンドな感じなんだよ。GPファンが世界中に何億人いようと、アメリカではほとんど取り上げられることはない。おかげでカリフォルニアに家族を連れてやってきた時点では、ヨーロッパに置き去りにしてきてしまった僕の愛するレースというスポーツを映画にしようと、なんとなく思っていただけなんだ。

でもそこで妻のフィオナがイアン・マクラーレンの奥さんのトレイシーと仲良くなって、子供たちも友達同士になったんだ。で、ある日気づいたらマクラーレンのうちの前に自分がいたってわけ。イアンのうちの壁の写真を観てわかったんだ。この南カリフォルニアのビーチ沿いの家こそが、僕が望んでいたものへの扉だってね。それはハリウッドじゃない。MotoGPなんだ。イアンと最初に交わした会話はGPについて、そして、これまでだれもまともなGPの映画をつくってこなかったってことについてだった。

イアンが「このわけわかんない髪型でうさんくさいロッカーとつきあいのある(そもそもLAに来たのはミュージックビデオの監督として成功しようと思っていたからだ)イギリス野郎が自分を放すつもりはない」ってあきらめるのに、それでも2年くらいはかかったと思うよ。

Q.昔からバイクが好きだったんですか?
A.3歳のときからね。祖父が僕を友人のサイドカーに乗せてくれたんだ。13歳の時には「音楽とバイクの他に興味はないのか」って先生に問いつめられるくらいだったよ。まるで、それでは人は生きていけないって感じでね。そのときは確かに興味の範囲が狭いことをちょっと恥ずかしく思ったけど、20年もたってみれば、あの10代の自分が正しい選択をしていたって気がする。女の子も世の中にはいるってことがわかったら、もう他には何もいらなくなったよ。

音楽とバイクにはずっと取り憑かれっぱなしだ。それなしの人生なんて考えられない。だから、ミュージックビデオの監督を始めたことも(もっともU2ほどには成功しなかったけど)、バイク映画をとろうと思ったのも自然な流れだったんだ。同じことを考えた映画監督は何百人もいるだろうね。でも僕には幸運なことに、トレイシー・マクラーレンと友達になってイアンと、彼の父親と、そしてMotoGPに僕を引き合わせてくれる妻がいたんだ。

Q.この映画はいつからいつまでをカバーしているですか?
A.2001年6月に撮り始めて、2002年の7月に撮り終わっている。

Q.より速いバイクが作られるようになって時速200マイルの壁を破るようになったことは、GPにとって相当重要なことだと思います。映画を撮り始める前から、2ストロークから4ストロークへの変更がこれほど大きな影響をもたらすとわかっていましたか?
A.2002年の1月に、どうもその年は資金がないから映画が撮れなさそうってころにイアンと話したことがあるんだ。2003年まで待とうかってね。でもそんなことは考えられなかった。つまり僕らが生きてきた中で一番重要な変革に立ち会えたのは、運がよかったんじゃなくて、あえてそこを狙ったってことなんだ。どうしてもそれを撮っておきたかったんだよ。2002年というちょうどいい変革の年に出会えたおかげで、2ストローク時代のヒーローを振り返るとともに、4ストローク時代を見通すことができた。2ストロークというのは史上最も野蛮なレーサーだ。乗りこなすのは信じられないほど難しくて、ライダーの技術と勇気を試す究極のテストという伝説の領域に踏み込んでいるんだと思う。新しい4ストロークはもっと許容範囲が広いようだ。でも2ストロークより遙かに速くなっている(去年ドゥカティはムジェロで時速206マイルを記録した)。実際F1カーより加速がいいんだ。それに恐ろしい音をたてる。元F1チャンピオンのニキ・ラウダは「これはバイクじゃない、地獄のマシンだ」って言ってるよ。

Q.MotoGPの撮影許可はどうやって得たんですか?
A.イアンと僕はまずイアンの父親のボブ・マクラーレンとパートナーのピーター・クリフォードに相談した。彼らの協力がなかったら一歩も進めなかったよ。彼らが僕らをMotoGPの権利をもっているドルナに紹介してくれたんだ。

ドルナにとっては、僕らはただの夢見がちな2人に思えたろう。映画撮影の依頼なんて月に半ダースは来てるだろうからね。でもまずはパイロットフィルムを撮る許可を出してくれた。そこで、まずはスペインで2001年のカタロニアGpwo撮影したんだ。2週間後、僕らは10分間のテストフィルムを上映した。みんなそれなりに感銘を受けていたみたいだよ。その後は映画のコンセプトをもっと明確にする作業にかかった。WCMレッドブルヤマハチームは知り合いだったから、まず彼らのストーリーを撮るための許可はくれたけど、1チームの1シーズンに映画を限定したくなかったんだ。

ここでまた僕らの運の良さが発揮されるんだけど、MotoGPを再びアメリカで開催しようという話があって、僕らがそうしてほしいと思っているときに、ドルナも同じことを考えていたんだ。(こないだアメリカでやったのは1993年だ)

そこでドルナは「FASTER」をアメリカにGPを再び紹介するために使おうとしたんだ。だから映画はトップライダーのこれまでの歴史と将来をカバーしなければならなくなった。おかげで僕らの考えとばっちり一致したってわけさ。バリー・シーンやケニー・ロバーツの時代からヴァレンティーノ・ロッシまでのストーリーを語れるような映画を撮りたかったんだけど、ドルナはそれを許可してくれたんだよ。

ドルナがスペインの会社だってことも幸いしたね。会社はバルセロナにあって、僕も80年代にそこに住んでいたから(実は1年中お日様の下でバイクに乗れる国に住みたかったからなんだけどね)。ボブとピーターの二人が最初に「イアンがハリウッドの監督を連れてくる」って彼らに話をしたときには、まさかカタルニア語を話すイギリス人がやってくるとは思いもしなかったろう。おかげでいろんなことがうまくいったよ。

Q.どのライダーを映画に出すかはどうやって決めたんですか?
A.70年代から80年代にかけて、僕はテレビでバリー・シーンとケニー・ロバーツを見て育ったんだ。その後、シュワンツ/レイニー/ドゥーハンの時代になって、レースにのめり込んでいった。シーンとロバーツは、膝をすって、リアを滑らせるという現代のGPのパイオニアだってことはみんなも知っている通りだ。年寄りが今の若いライダーについて語るのが好きなように、今の若いライダーもシーンやその時代のライダーについて語るのが好きだってことはわかってるんで、そのあたりの時代から始めようと考えていた。

それが決まれば、後は時代を下っていくだけだ。個人的にインタビューできなかったのはバリー・シーンだけだった。ちょうどケヴィン・シュワンツをカリフォルニアで撮影するのと同じ週になってしまった上に、編集の真っ最中だったんだ。バリーとは電話で何回か話して、メールで質問をして、それから2人組のクルーを彼のロンドンの家に派遣したんだ。2002年のイギリスグランプリの翌日のことだった。前の晩はドニントンでのクラシックレースの祝勝会だったんだけど、それでもインタビューはプロらしく完璧にこなしてくれた。彼ががんの宣告を受けたのはそれから何週間かしてからだと思う。「FASTER」は彼がいなかったら別の映画になっていただろう。彼がいない世界が考えられないようにね。彼はほんとのスターだったよ。

Q.ロッシやビアッジのような大スターにインタビューするのはたいへんでしたか?
A.誰にも断られなかったよ。みんながとてもオープンでしかも親切なのにはびっくりした。もちろん、階段を上っていくにつれて、きつくはなっていくんだけどね。ビアッジにインタビューしたときには何度か失敗しそうになったし、ロッシにちゃんとしたインタビューができたのは、2002年カタルニアでGPの最後の撮影をするときだった。だから制作中ずっと、「結局からっぽの映画になってしまうんじゃないか」という心配に悩まされていたよ。昔のチャンピオンやらメカニックやらトランポの運転手やらライダーのガールフレンドやらはいるのに、肝心の「今をときめくスター」がいないってことになったらどうしようってね。そこでドルナが助けてくれたんだ。もし彼らがいなかったら、きっとまだヴァレンティーノのモーターホームの前で待っていることになったろう。


Q.これまでに誰かチャンピオンに会ったことはありますか?
A.いや、ないけれども、それが良かったんだと思う。彼らも僕に何を期待していいかわからなかったし、おかげで会話の内容が身のあるものになった。彼らはインタビュー慣れしてるんで、僕は目新しさを付け加えて、彼らが生き生きして見えるようなシチュエーションを作ったんだ。そのいい例が、小型カメラをつけた車でサーキットの周りを運転してもらいながら撮った映像かな。


Q.ライダーとの間で最も思い出深いことはなんですか?
A.いちばんびびったのは、ロッシと個人的にお近づきになったことかな。彼がラリーカーをテストしているときのことだけど、僕はコーナーの外側に立っていた。そしたら、ラップごとにペースをあげていって、毎ラップドリフトがアウト側の僕の方によってくるんだよ。「もういいかげん後ろに行こう」と思っていたら、ロッシがまた滑ってきて、すぐそこで木にぶつかったんだ。気の置けない仲ってのも時には考えもんだよ。トップライダーと仲良くなるのもいいけど、なりすぎちゃいかんね。

マックス・ビアッジは、相当普通じゃないインタビュー相手だった。彼はすぐインタビュアーを無視してカメラを見ちゃうんだ。まるでカメラ越しに観客を催眠術にかけようとするかのごとくね。撮影していたグラント・ギーは後から僕にこう言ったよ。「すごくへんな気分だった。僕に色目をつかってるんじゃないかと思ったよ」

いい思い出はカタルニアでわずか6戦目にしてポールを獲得したばかりのジョン・ホプキンスにインタビューしたときのことだ。19歳のルーキーが戦闘力の低いマシンでポールを獲るなんてすごいことだからね。ピット中、みんなうれしそうだった。あれこそ決定的瞬間というものだろう。彼が本当に戦えることを示したラップは歴史の一こまになったんだ。

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この後も、FASTER2(!)のこととか、ドクター・コスタのこととか、監督はどんなバイクに乗ってるのかとか、いろいろ続くよ。

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映画「FASTER」

MotoGPの映画「FASTER」がテアトル新宿にて9月10日(土)からレイトショー開催されます。

予告編もなかなかの出来。

むかしは結構この手の映画がありましたね。なんかマルコ・ルッキネリが歌をレコーディングしてるような映画を観た記憶がありますよ。

ナレーションはユアン"オビ・ワン"マクレガー。本人もかなりのバイク好きらしく、映画「アイランド」では喜々としてバイクシーンを撮ったとか。いや、「アイランド」って「2300年未来への旅」と「輝夜姫」を足して2で割り損なったような映画な気がするんで観てないんですが、ま、そんなことはどーでもいいですな。とりあえず公開日に観に行こうか知らん。

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ヤマハレースヒストリー その7

ヤマハレースヒストリーその7がMotoGP公式サイトにアップされてます。そんなこんなで、冨永のお休み最後の日は翻訳まみれで終わるのでした。

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1980-1984:ヤマハTZ みんなのレースバイクの巻

他のメーカーと同様に、ヤマハも勝利のほとんどはワークスチームが記録している。しかし、ヤマハは同時にプライベーターに販売した2ストローク市販バイクでも成功を収めているのだ。4気筒のヤマハTZ750、そして2気筒のTZ350、TZ250は、いずれもこれを購入しチューンしたプライベーターの手によってチャンピオンの座を獲得している。

実際、70年代末から80年代初頭にかけて、TZはGPのみならず世界中の国内選手権を席巻したのである。TZはシンプルながらも戦闘力があったため、才能があってもそれほど資金力のないライダーにとっては最高の相棒だったのだ。実際1976年のTZ250Cの価格は、豊富なスペアパーツも含んでわずか1500ポンドだった。1980年代初頭にはチューンを施したTZツインは250、350の両クラスで4回ものタイトルを獲得した。フランス人プライベーターのジャン・ルイ・トゥルナドレが1982年のタイトルを獲得したのにつづき、83年にはヴェネモトのサポートを受けたカルロス・ラヴァード、そして84年にはゴロワーズをスポンサーとしたクリスチャンサロンがチャンピオンとなっている。

350ccでは1980年に豪胆な南アフリカ人のヨン・エケロルト(Jon Ekerold)*がワークスマシンを駆るライバルを退けてチャンピオンとなっている。また70年代にはボアアップしたTZ350が500ccクラスでも勝利を収めている。実際、国内選手権レベルでは資金力のないクラブがTZ350で350と500の両クラスに出場することもあったのだ。ブルーの350クラスのゼッケンを500用の黄色のものにしただけで、エントリーバイクをヤマハ351とかヤマハ354と称して参加していたのである。こうしたマシンは「スリー・ファイブ・ファブロンズ」**というあだ名をつけられていた。同時期に4気筒のTZ750(YZR500をベースとしていた)は1977年から79年までの短期間のみ開催されたフォーミュラ750での勝利を独占した。

TZ250および350のリードバルブの起源は実に60年代から70年代にかけて活躍したTD1、TD2まで遡ることができる。さらにこれはRD56を起源とするストリートバイクに端を発するものである。TZは毎年改良を重ね、72年には水冷化、76年にはディスクブレーキ装着とモノショック化、81年にはYPVSというパワーバルブを装備している。

そしてTZがストリートバイクに端を発しているように、ヤマハはこんどはTZをベースとして伝説的なRD250LCとRD350LC***を発売する。これらの水冷マシンは80年代のクラブレースを席巻し、さらにはF2、F3****でも成功を収めることでヤマハのストリートバイクとレーシングマシンの関係の深さを再び証明したのであった。

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*:一応南アフリカ人ってことでオランダ風の読みにしてみましたが自信なし。
**:ファブロンってのはイギリスで当時メジャーだった装飾用粘着シートのブランドです。こんな感じ。裏の紙をはがすと、ぺたっと貼れる式のやつですな。たぶんゼッケンをちょいちょい、と貼り替えるところからきているのではないかと。
***:いわずもがなですが、RZ250とRZ350の欧州名です。
****:F2は4ストローク600ccまで、2ストローク350ccまで、F3は4スト400、2スト250までというクラスです。日本では免許制度と車検の関係で、F2クラスってのはほとんどみられませんが、ヨーロッパでは比較的メジャーだったようです。

なんだか、村の古老は語る、になってるなあ、最近。
どーでもいいですけど、みなさん楽しんでます?

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クリニカ・モビーレ(とは移動診療車のこと也)

サマーブレイクということでクリニカモビーレの歴史がMotoGP公式サイトにアップされてます。今日まで冨永はお休みなんで、翻訳しますよ。ええ。

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それは33年前、ムジェロの丘で単なる夢として始まった。そして5年後、オーストリアアルプスの雄大な景色の中で現実のものとして始まったのである。今日ではMotoGPが開催されるすべてのサーキットで医療が受けられるのは当然のこととされるようになった。トップライダーが骨折しても、ホスピタリティのシェフが指を切っても、皆クリニカモビーレで手当を受けられるのだ。

近年、ライダーがクラッシュするとすぐにクリニカ・モビーレに運ばれ、そこで診断を受けらるようになったが、昔からそうだったわけではない。60年代から70年代初頭にはまともな医療施設のないサーキットもあったのだ。そのせいで命を落としたライダーも確実に存在するだろう。あるレース主催者の息子であった一人のイタリア人の医師が立ち上がったのは、このような状況の中だったのである。安全な環境でコースやパドックでの仕事に打ち込めるのは彼のおかげなのだ。

1972年4月23日、イタリアはイモラサーキットでアメリカンスタイルの200マイルレースが開催された。主催クラブの会長、チェコット・コスタは、この重要なレースに際して彼の息子に医療施設の再整備を依頼したのだ。

5年前に医学部を卒業したドクター・クラウディオ・コスタは、よろこんでその依頼に応じた。そして彼はボローニャで最高の医師を雇ったのに加えて、GP開催時の医療ケアを根本から改革するための基金を創設した。

ドクター・コスタとその仲間たちにとっても楽な仕事ではなかった。最初は車で、船で、鉄道で、とあらゆる交通手段を駆使して医療機器の入った箱を抱えながらすべてのGPを廻っていたのだ。主催者が資金をけちったせいか、どうみても原始的としかいえないような医療施設しかないサーキットもあった。重傷者を迅速にかつ効果的に治療するためには、あきらかに改善が必要な状況である。すべてのレースに帯同する移動クリニックはドクター・コスタの夢だった。イモラでの記念すべき第一歩から5年と1週間後、ついに彼の夢は実現する。オーストリアはザクセンリングのパドックにクリニカ・モビーレがその姿を現したのだ。

最初のクリニカ・モビーレは小さかったが、それでも優秀な専門医と相まって、多くのライダーの命を救うこととなった。事故が起きてから数分間の最も重要な時間帯に治療が始められるようになったことで、フランコ・ウンチーニ、フィリップ・クーロン、ミシェル・ルージェリ、ヴィルジニオ・フェラーリら多くのライダーがこの時期に救われている。

1981年には、これまで1台しかなかったベッドを2台に増やした新たなクリニカ・モビーレが作られた。このころには毎年3000人が治療を受けるようになっている。その中には世界チャンピオンのフランコ・ウンチーニや、ヴァレンティーノ・ロッシの父親であるグラツィアーノを含む300人のライダーが重大事故の後に治療を受けている。

世界チャンピオンのジャコモ・アゴスチーニ、ケニー・ロバーツ、フランコ・ウンチーニが新しいクリニカ・モビーレを寄付したのは1988年、イモラでのことである。16年前を思い起こして、この場所が選ばれたのだ。

いちばんクリニカ・モビーレを利用していたうちの一人、前年の世界チャンピオン、ワイン・ガードナーが最初の利用者となった。グランプリ1週間前にユーゴスラビアでのテストでクラッシュし右足を5カ所も骨折したのだ。しかしイモラでは2位に入った彼は感謝の意を込めて賞金を寄付している。また、イモラでのレース後、故ヨハネ・パウロ2世*がローマでクリニカ・モビーレに祝福を与えている。そして再びクリニカ・モビーレはヨーロッパ中を旅して廻るのであった。1996年には15のグランプリで7000人以上を治療することになった。

4代目は1997年、ミック・ドゥーハンがスペインのホアン・カルロス国王**にお披露目するというかたちで紹介された。新型車はついに5台のベッドを備え、さらに新たに理学療法士がスタッフに加わることとなった。クリニカ・モビーレの役割も変わってきつつある。クリニカ・モビーレが導入されるようになってから、メディカル・ダイレクター(医療責任者)という役職がすべてのサーキットに設置されるようになり、医療施設に対する考え方、そして医療施設そのものを大きく変えることになったのである。クリニカ・モビーレの医師がメディカル・ダイレクターを兼任することも少なくない。

今日では、生命に関わる緊急時に対応するために、サーキット常設のメディカルセンターが機器、スタッフの提供および病院によるバックアップのコーディネートを提供することになっている。クリニカ・モビーレの主要な業務は緊急以外の対応となったが、それでもスタッフは地元の医師・病院に対して支援およびアドバイスを提供することもある。クリニカ・モビーレは良い病院での一次救急施設(top casualty at a good hospital)の役割を担っているのだ。

MotoGPのパドックで働く人の数は、時には3000人にも達するが、その誰もが必要ならば24時間医療が受けられることを知っている。おかげで、故郷を遠く離れてプレッシャーにさらされながら長時間働く人々が心安らかにいられるだけでなく、その家族にとっても安心感のもととなっているのだ。

現在は稼働しているのは3年前のへレスで、これまた世界チャンピオンたちが寄付した5代目である。相変わらず24時間、誰でも使える施設ではあるが、イモラでの春の日、かつてドクターコスタが見た夢から最も恩恵を受け、そして最も多くの恩返しをしているのはライダーたちである。

去年は16のレースで706人のライダーがクラッシュに見舞われている。平均すると1レースで44回のクラッシュとなる。一人あたりでは1シーズンに6回ということになる。つまりライダーであれば誰もがいつかはクリニカ・モビーレのお世話になるということなのだ。去年はありがたいことに重傷に至るライダーはいなかった。

もしこれが30年前だったとしたら、706のクラッシュのうち、もっと深刻なことになっていたろうし、最悪の事態になっていたかもしれない。
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って、なんか中途半端な終わり方ですな。
ちなみにうちにはドクター・コスタの自伝の英訳があるんですが、未読。どっかで翻訳して売ってくれないかしらん。50冊くらいは売れるかも・・・。

*:今日のトリビア・・・パパ様(教皇様のことね)ったら「わしゃビアッジよりロッシが好きなんだよね」って言っちゃったことがあるそうです。ほんとかどうかは知らないけど、ちょっとかわいいぞ。そんなビアッジも切なくて好き。
**:トリビアその2・・・スペインの国王様は有名なバイク好き。MVアグスタF4の初号機は確か彼のところに納品されたんじゃなかったでしたっけ。ほかにも、あるライダーがガス欠で困っていたら、通りすがりの親切な初老のライダーが停まってガスを分けてくれたんだけど、よっく見たら国王様だった、なんていい話もあり。あー、ガス欠じゃなかったかも、だけどとにかくそんな話。

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ヤマハレースヒストリー その6

土曜も日曜も関係なくヤマハレースヒストリー その6がMotoGP公式サイトにアップされてます。ケニー・ロバーツ(当然シニア)登場!今日も右手にProgressive英和辞典、左手にマルボロブックで、ばりばり行きますよ。

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1978-1980:キング・ケニーとヤマハが3連覇の巻

70年代になってキング・ケニー・ロバーツがやってくるまで、GPはヨーロッパ人が支配していた。厳しいアメリカのダートトラックレースで鍛えられ、ヤマハXS650と750ツインで獲得した2度のタイトルをひっさげてやってきたキング・ケニーは、そのドリフト走行でGPの様相を根底から覆したのだ。同時に彼はGPサーカスに新たなプロフェッショナリズムを持ち込むとともに、ライダーの権利確立のために大いに貢献することにもなった。

1978年、ロバーツがGPに参戦した年にチャンピオンを獲得したことは、多くのGP関係者を驚かせた。皆、ロバーツがヨーロッパのサーキットの複雑さに慣れるには数年かかるだろうと言っていたからだ。しかしながらロバーツはいともやすやすと2年連続チャンピオンのバリー・シーンを破ってみせ、YZR500/OW35を、その年の一番速いバイクの座につけたのである*。

ロバーツはこのドリフト走行を驚くほど効果的に使って見せた。パワースライドが出るほどコーナーでマシンを寝かせたのだ。ロバーツは言う。「僕がコーナーでスライドを始めると、みんなが『おいおい、まじかよ、どうかしてんじゃねえの』って言ったけどね。でも元々はダートトラックで走ってたんで、全然OKだったんだ」 この過激なテクニックのおかげでコーナーでの脱出ラインが有利なものとなり、ロバーツは1979年、1980年と合わせて500ccでの3連覇を達成する。しかも79年にはウィンターテストで背骨を骨折していたのである。ライバルの多くが同じライディングスタイルになるのに、それほど時間はかからなかった。みなダートで練習しドリフトを身につけたのだ。今日ではスライドコントロールはすでに必須のテクニックとなっている。

3年間で12勝をあげたロバーツはさらに後の3年間で10勝を重ねたが、もう少しのところでチャンピオンを逃してしまった**。しかし、この間、ヤマハにとっても非常に重要な仕事を成し遂げている。テストライダーとしても優秀だったキング・ケニーは1980年にヤマハのアルミニウムフレーム開発に大きな貢献をしているのだ。この開発にはサスペンションメーカーのオーリンズも協力している。さらに1982年にはヤマハ初の500ccV4マシンを駆り、エディー・ローソン、ウェイン・レイニーによる6つのタイトル獲得につながるYZRの系譜がここに始まるのであった。
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*:ほんとのことを言うと、それほど易々とっていうわけではなく、ケニー110ポイント、シーン100ポイント(当時は1位15、2位12、3位10ポイントで、10位までポイントがつきました)という、割と接戦と言えなくもない結果でした。もっとも勝利数はケニー4勝、シーン2勝、アメリカ人でスズキのハネン1勝、オランダ人でスズキのハルトフ2勝、ヴェネズエラ人でヤマハのチェコット1勝、イタリア人でスズキのフェラーリ1勝なんで、ま、ケニーの圧勝にも見えます。ついでに言うならランキング3位以下は、チェコット、ハルトフときて、5位に片山敬済が入っています。ちなみにスズキがこんなに駆っているのは当時戦闘力のある市販500cc(というのがあったのですよ)を売ってるのがスズキだけだったからですね。というわけで、この76年から82年まではスズキがコンストラクターズタイトルを獲得しています。勉強になるなあ(って、マルボロブックにおんぶにだっこなんですが)。

**:これまた「あとわずか」ではないですね。81年はスズキのルッキネリが105ポイントでチャンピオン、2位はやはりスズキのマモラで94ポイント、で3位がロバーツで74ポイントでした。82年はスズキのウンチーニが103ポイントでチャンピオン、2位はクロスビーの76ポイント、3位にスペンサーが72ポイント、ロバーツは4位で68ポイント。そしていまだに伝説の年として語り継がれる83年。これは掛け値無しにあと一歩のところでチャンピオンを逃しています。全12戦のうち11戦を終えて、ロバーツ5勝で127ポイント、スペンサーは6勝で132ポイント。当時は1位15ポイント、2位12ポイント、3位10ポイントですから、最終戦サンマリノでロバーツがスペンサーに勝ってもスペンサーは2位でチャンピオンになるという微妙な戦い。ポールをとったロバーツはトップを走行しながらもスペンサーを押さえつつ、3位を走るチームメイトのエディ・ローソンが追いついてくるのを待ちます。ローソンがロバーツとスペンサーの間に入れば、同点かつ勝利数も同じながら2位の回数の差でロバーツがチャンピオンになれるからです。しかし、ローソンは前を行く2台に追いつけないまま。結局ロバーツ1位、スペンサー2位となり、2ポイント差で天才フレディ・スペンサーがチャンピオンになります。ここでロバーツを助けられなかったローソンですが、翌84年、さらに86年、88年とヤマハでチャンピオンを獲得し、さらに89年にはホンダに移籍してすぐチャンピオンという偉大なライダーに。ま、個人的にローソンが偉大なのはカジバに初勝利を(雨の中タイヤチョイスが奏功したとはいえ)もたらしたってところですが。

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ヤマハレースヒストリー その5

ヤマハレースヒストリー その5がMotoGP公式サイトにアップされてます。今回はいよいよ500ccクラスへの挑戦です。

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1973-1975:サーリネンとアゴスチーニがもたらした最高峰クラスでの栄光の巻

今日、ヴァレンティーノ・ロッシが引き継いでいるヤマハの最高峰クラスでの栄光の記録は、70年代にヤルノ・サーリネンとジャコモ・アゴスチーニによって幕を開けたものである。1975年、最高峰クラスへの挑戦が始まってからわずか2年後、ヤマハは日本メーカーとして初めて500ccのチャンピオンを獲得したのだ。

ヤマハは125と250の両クラスで2ストロークマシンの開発を続けながらも、常に最高峰クラスでの成功を虎視眈々とねらっていた。そしていよいよ1973年、フィンランドの天才、ヤルノ・サーリネンを擁して500ccクラスに参戦。YZR500(OW19)とサーリネンは、60年代中盤からGPを支配してきたジャコモ・アゴスチーニと4ストロークMVアグスタのコンビを打ち破り、初戦のフランスGPで勝利を収めたのである。15回もチャンピオンを獲得したアゴスチーニは1973年の初めの段階でこう言っている。「ヤマハは美しいマシンを作り上げた。サーリネンと彼のマシンはどちらも素晴らしい。彼らと互角に戦うのは無理だね」

OW19のようなマシンはこれまで誰も見たことがなかった。水冷2ストローク直4で80馬力を発揮するエンジンはヤマハのレースマシン初のリードバルブのおかげでコントローラブルだった。サーリネンはシーズン途中、5月のイタリアGP350ccクラスでの多重クラッシュで悲劇的な死にみまわれるまで1973年の500ccクラスのポイントリーダーの座を守っていた。

サーリネンの死にショックを受けたヤマハは一旦ワークスチームを解散し、1974年シーズンに向けての準備のために日本に戻ることにした。ジャコモ・アゴスチーニに声を掛けたのである。ヤマハが恋いこがれるこのイタリア人は、ヤマハの2ストローク技術が誰にも負けないことを理解していたため、1974年シーズンはヤマハと契約することにした。アゴスチーニはこの年90馬力のOW20とOW23を駆りながらも2勝しかできなかったが、それでもヤマハはコンストラクターズタイトルを獲得できた。ちなみに、この年のマシンは、ヤマハが世界タイトルを獲ったモトクロスマシンのリアサスペンションをそのまま使用していた。

翌年、迅速なギアレシオ変更を可能にするカセットタイプギアボックスを装備したOW26とアゴスチーニは、勝利を重ねついに世界タイトルを獲得する。アゴスチーニにとっては最後のチャンピオン獲得であり、ヤマハにとっては、以降の数々の勝利につながる、初めてのチャンピオン獲得となった。

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モトクロス用サスですか・・・。

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組織票を組織するぞ

デ・アゴスチーニの隔週刊チャンピオンバイク、あたしゃ毎号買ってるんですが、今週号にアンケートがついていて、そこで、「あなたがほしいコレクションモデルすべてに○をつけてください」って設問があります。
が、選択肢に大事な3人が抜けてますっ!とりあえず初チャンピオンのときに絞って以下の3台をピックアップ。

○1993年 原田哲也のヤマハTZ250
○1994年 坂田和人のアプリリアRS125
○1995年 青木治親のホンダRS125

というわけで、チャンピオンバイクを買っていて、ご賛同くださる方、また、よーっし、じゃあ今号だけは買ってやるかってな方、是非、上記3代をアンケートQ9.選択肢22番「その他」に書き加えましょう!

いやはや、この3人をぬかしちゃだめでしょう。
ほかにも
○ロン・ハスラムのelf
とか
○片山敬済のNSR500
とか、いろいろほしいものはあるのですがね。

まあねえ、1790円っつー、微妙な値段と、薄い記事にいらいらしつつも毎号買っているのは、次に何が出てくるかが楽しみだからなんで、ちょっとこれくらいはやってほしい。
ちなみに次号はホルヘ爺の88年デルビです。こういうのがほしいのよっ!

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ヤマハレースヒストリー その4

間髪入れずにヤマハレースヒストリー その4がMotoGP公式サイトにアップされてます。
今週中はこっちもついていきますよ。

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1967-1968:60年代の技術伝統 125と250のV4マシンの巻

60年代終盤はバイクレースにおいて異常なまでの技術的発展を遂げた時代であった。これほどまでの時代はその後もなかったと言ってもよいだろう。馬力追求のためにメーカーは驚異的なエンジンを作り出した。シリンダーの数を増やし、めまいがするほどの回転数でパワーとスピードを稼いだのだ。この技術に対するルールが比較的自由だった黄金時代、ヤマハは125ccV4マシンのRA31とやはりV4の250ccマシンRD05をデビューさせた。

まず最初にデビューしたのはRD05である。ヤマハレーシングマシン初の水冷エンジンは、ツインクランク、ディスクバルブのV4に8速のギアボックスが装備され、73馬力を14000回転で絞り出すことで、最高速は241km/hに達した。当初このV4エンジンはRD56のフレームに積み込まれたが、全開にするには勇気がいるマシンであった。フィル・リードにとっても、このマシンでレースをするのはたいへんだったようで、彼は05のことを"とんでもなく暴れるマシン"と形容している。しかしリードは全力を振り絞り、ホンダの4ストローク6気筒を駆るマイク・ヘイルウッドとの熾烈なチャンピオン争いを続けた。獲得ポイントでトップになったことから、リードは自分がチャンピオンだと思っていたが、FIMルールブック上の混乱により、タイトルはヘイルウッドのものとなった。*

それでもヤマハはビル・アイビーの駆る250のスケールダウン版であるRA31によって125ccの初タイトルを獲得したことで一矢を報いることができた。RA31は実に17000回転で40馬力を発揮したが、狭いパワーバンドを生かすために9速のギアボックスを装備しなければならなかった。

翌年ヤマハは125ccと250ccのダブルタイトルを獲得した。リードとアイビーは両クラスで1位と2位を獲得している。しかし、ヤマハの最高のシーズンはその思惑とは異なる結果だったのである。実はヤマハとしては、リードに125ccタイトルを、アイビーに250ccタイトルを獲らせようとしていたのだ。しかし、リードはこの取引を拒否し、両クラスでのタイトルを獲得してしまったのである。数年後、リードはこう語った。「僕は自分が正しいと思ったことをやっただけなんだ。その決心を変えるつもりはなかったよ」

世界レベルでそのエンジニアリングの優秀さを証明したことでヤマハは1968年を最後にGPから手を引くことにした。激しい技術競争がメーカーを倒産させかねないと憂慮したFIMは技術的制限をGPマシンに課すことにした。その結果、RA31とRD05は過去のものとなってしまったのである。ヤマハは日本に戻り次の挑戦を始めることにした。ついに最高峰である500ccクラスへのチャレンジが始まったのである。
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*:マルボロブックによると、1967年の総獲得ポイントはリードが56、ヘイルウッドが54でしたが、この年は全13戦のうち、ポイントの高い7戦の総計で争われていました。で、こちらの計算方法では両者50ポイントで同点。この場合は勝利数の上回る方がチャンピオンという規定だったので、7勝のヘイルウッドが5勝のリードを下してチャンピオンになったというわけです。ちなみにこの年の最終戦は富士で行われた日本GPでした。

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ヤマハレースヒストリー その3

ヤマハレースヒストリー その3がMotoGP公式サイトにアップされてます。
夏休み中スペシャルなのか、結構な頻度。こっちが息切れしそうですよ。

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1963年から1964年: グランプリ初参戦と初チャンピオンの巻

もしヤマハが日本のレースを制覇したのが単に流れ星のように一瞬の輝きだとしたら、250ccのワールドチャンピオンになどなれはしなかったろう。しかし実際には1963年に初勝利を収め、その翌年には世界タイトルを手にしたのである。

ヤマハのGPデビューは1961年5月のクレルモンフェランであった。この時の成績は125ccと250ccで8位、マシンは単気筒のRA41とツインのRD48。これがほとんど初めてと言っていいくらいの完全舗装路でのレースで、しかもこの時のGP参戦はあまり大々的なものでなかったことを思えば、それほど悪い成績とは言えないだろう。初参戦ではヨーロッパにファクトリーを持つこともなく、たった3台のトラックにライダー、クルー合わせて13人とマシンを積んでヨーロッパ大陸を廻っていたのだ。地球の反対側ではコミュニケーションもままならず、ホームシックにかかったチームと磐田をつなぐものは、繋がりの悪い電話とテレックスだけだったし、マシンのパーツはヨーロッパ中の空港で受け取るという有様だったのだ。


1962年のシーズンにはヤマハは新設計の250ccを持ち込んできた。RD48の発展型であるRD56はヤマハ初の戦闘力を持ったGPマシンであった。空冷ディスクバルブ2気筒のこのマシンは11,500回転で実に55馬力を絞り出し、ダブルクードルの"フェザーベッド"フレームで武装していた。

RD56は。すばらしく速いだけでなく、ハンドリングもよかった。伊藤史夫は最初の2戦で2位でフィニッシュした後、スパ・フランコルシャンでついにヤマハに初優勝をもたらした。しかもスナコ・ヨシカズとの1−2フィニッシュというおまけつきだった。

この勝利の陰には、スパの全開ストレートで起こったキャブ不調を徹夜で解決した事実が隠れている。伊藤は富士と浅間のダートで鍛えられ、そしてついには驚異的な189km/hという記録で勝利したのである。レース後、チームマネージャーのナイトウ・ヒロシは言った。「エンジンは生き物だってことを、ますます実感しました」

数か月後、ヤマハは栄光への階段をまたひとつ上ることになる。ハードライディングで知られるイギリス人のフィル・リードを1964年の250cc契約ライダーとして迎え入れたのだ。このコラボレーションはすぐに花開いた。リードは5勝を収め、ジム・レッドマンとホンダからチャンピオンの座を奪ったのである。1965年もヤマハとリードは勝利を収めた。ついに世界の強豪に肩を並べたのだ。
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このマニアックさ、誰が書いているんでしょう?日本なら中沖満氏あたりかな、と思うところですが。

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ミシュランのロジスティクス

戦争で一番大事なのは、実は補給線(ロジスティクス)だったりします。MotoGPも戦争。ってなわけで、ミシュランとMotoGPタイヤのロジスティクスっつー記事がMotoGP公式サイトにアップされてます。日本語サイトの記事ではなぜだか半分しか訳されてません。力尽きたのか?夏休みなのか?どういうことなのだ?

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クレルモンフェランの工場でミシュランのMotoGpレース用タイヤがラインオフしてから表彰式まで、いや、その後までもタイヤ供給は非常に重要な役割を担っている。私たちは世界で最も渇望されているタイヤを追いかけてみた。


Q:2005年にミシュランを使用しているライダーは何人?
A;ホンダ、ヤマハ、KTMの全ライダーで12人いる。スペアマシンも入れたら24台の面倒をみているということだ。、

Q:1回のGPで何本のタイヤを持ち込むのか?
A:約1200本で、そのうち40%がフロントタイヤで残りがリアタイヤだ。2つのレースのスケジュールがつまっていて、クレルモンフェランのレース部門に戻っている時間がないときはもっとたくさん持ち込むことになる。レインタイヤはその10%くらいで、インターミディは天候に合わせて、サーキットでグルーブを掘るんだ。平均して1レースで500本が使われるが、私たちはその倍以上を持ち込んでいる。いろいろな状況に対応できるように様々なタイプのタイヤがあるからね。

Q:欧州内のGPの時は、どのようにタイヤを運ぶのか?
A:タイヤと、装着のための工具が3台のトラックに積み込まれる。タイヤの種類ごとに仕分けして、型くずれを防ぐために柔軟性のあるラックに垂直に積み込むんだ。在庫管理とタイヤ払い出しをスムーズにするために1本ずつバーコード管理している。トラック隊の中にはこのほかに移動オフィスもあってミシュランのMotoGPプログラムマネジャーと技術者の基地にしている。欧州内でのテストとレースを合わせて年間走行距離は3万から3万5千キロぐらいにもなる。

Q:トラック隊がクレルモンフェランを出発するのはいつ?
A:サーキットがどれくらい遠いかにもよるけれども、月曜か火曜には出発して、遅くとも水曜午後には到着するようにしている。

Q:運搬中は相当警備がたいへんでしょう?
A:いや、まったく。トラックはいつも隊列を組んでいるし、必ずトラックには誰かが残るようにしている。寝るのもトラックの中だ。警報装置もついている。

Q:1回のレースで何人くらいのスタッフが来るのか?
A:エンジニアとMotoGPマネジャーのほかにパドックでの装着担当兼トラックドライバーが8人、さらに在庫管理とタイヤ払い出し担当がいる。サーキットでは夜警もいるよ。

Q:サーキットにいるときに、さらにタイヤがほしいってこともありです?
A;前のレースで得たデータに基づくタイヤの生産がメインのトラック隊の出発に間に合わないといった場合、ヨーロッパのグランプリなら期間中に追加発注することができる。最終発注期限はクレルモンフェランとサーキットの距離で決められている。

Q:レースにはどんな道具を持って行くのか?
A:タイヤチェンジャー3台とタイヤバランサー3台、コンプレッサーが2台に、タイヤに充填する空気を除湿するための除湿器を1台というところだ。

Q:ヨーロッパ以外でのGPの場合はどう違うのか?
A:ヨーロッパから出るときは、10トンにもなるタイヤと工具をコンテナに積んで空輸することになる。最終発注期限がどうこうという話ではなくなるのでヨーロッパでのGPより10%増しでタイヤを持って行く。タイヤはクレルモンフェランからシャルル・ド・ゴール空港までトラックで陸送し、国際運輸のスペシャリストがその後を担当する。サーキットまでは5日から1週間かかる。いちばん気を遣うのは通関だ。えらく時間がかかる国があるんでね。

Q:マシンをはこぶときはタイヤがついているのか?
A:いや、マシンの運搬のためにチームに対してスタンダードタイヤを渡している。こっちは特に先進技術を使っているわけでもなくて、単に運搬や展示のために使うものだ。

Q:レース後のタイヤはどうしているのか?
A:すべてクレルモンフェランに送り返している。機密保持のために厳しいルールがあるんだ。使用後のタイヤは分析後に破砕している。

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鑑賞のポイントは、「最終発注期限」と「マシン運搬用タイヤ」でしょうか。

全然関係ないですが、スカパーで「大モンゴル」って昔の番組をやっていて、それを観ながらの私とかみさんの会話。
かみさん 「そりゃ、モンゴルが大帝国になるのも納得できるわ」
わたし 「ん?なんで?」
かみさん 「だって、遊牧民にロジスティクスは関係ないでしょ」

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ヤマハレースヒストリー その2

ヤマハレースヒストリーその2がmotoGP公式サイトにアップされてます。

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1955年〜57年:まずは日本を制覇 の巻

1955年の富士登山レースにおけるヤマハの勝利は決してまぐれではなかった。この成功に気をよくしたワークスチームはその4か月後、日本でもっとも有名な火山の周囲を廻る浅間火山レースに4台のYA1改をエントリーさせ、1位から4位までを独占という富士以上の成功を収めたのである。現在まで続くヤマハとワークスホンダを含むライバルとの抗争がここに始まった。わずか数か月前には存在すらしていなかったヤマハという会社は、今や日本のレースにおいては倒すべき強敵となったのだ。

実はヤマハの創業は19世紀に山葉寅楠が楽器を作り始めたところまで遡る。これが有名な音叉マークの由来である。第二次世界大戦が終わり、ヤマハの幹部は将来を確固たるものとするため、別の市場を目指そうとしていた。自動車、三輪車、ミシンなども検討されたが、最終的には日本で急成長しているバイク市場に打って出るのがもっとも有望という結論に達した。しかし、そのころ国内には100以上のブランドがひしめき合っていたのである。当然のこととして、ヤマハの試みについてまじめに取り合わない販売店も少なくなかった。「ヤマハがバイクを作るだって?ドレミファソって音が鳴るのかね?」*と揶揄されもしたが、富士と浅間の後では誰もそのような冗談を言わなくなった。

大成功に終わったレースのデビューまでに約1000台が生産されたYA1以来、ヤマハのストリートバイクとレースは今日まで常に強い結びつきを持っている。ヤマハの初代ワークスチーム監督であるワタナベゼンタロウは言う。「最初の勝利は私たちにとって最高の広告になっただけでなく、いいバイクを作るための貴重なデータを与えてくれた」

その2年度、ヤマハはYA1を改良したYA2に加えてヤマハ初の250ccマシンYD1をもって第2回の浅間に戻ってきた。YD1は空冷ピストンリードバルブ2気筒のマシンで、115km/hの最高速を誇っていた。そして再びヤマハは浅間の王者となる。125では1位2位、250では1位から3位までを独占したのだ。日本を制覇したヤマハの次の目標は世界であった。
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*:当時の静岡弁では「ヤマハがポンポンを作るだって?ドレミファソってゆうだかしん?」

おまけトリビア:山葉寅楠が始めた会社は「山葉風琴製作所」。ちょっとロマンな名前でございますのことよ。

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ヤマハヒストリー

MotoGP公式サイトにヤマハヒストリー1955年から2005年っつー、まあこないだのミシュランヒストリーみたいなのがアップされてます。今回はパート1。
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1955年 富士登山レースでヤマハは見事なデビューをかざる の巻

1955年7月12日の朝、10台を超えるヤマハYA-1が霊峰富士の麓、エンジン音を響かせた。過酷な富士登山レースの始まりである。その美しい、そして小柄な125cc、2ストロークマシンは、ヤマハが初めてレースに送り出すバイクであった。それもそのはず、ヤマハ発動機は、わずか2週間前に生まれたばかりの会社だったのだ。にもかかわらず社長の川上源一は、ここで成功を収め、新会社の名声を高めようと決意していた。

より正確には、1955年7月1日、ヤマハブランドの楽器で知られる日本楽器を親会社としてヤマハ発動機は設立された。1955年2月に生産が開始されたYA-1のタンクは、マルーンとクリーム色に塗り分けられ、ピアノ部門の手により磨き上げられていた。YA-1のパワーは5馬力。ほぼノーマルで富士のレースに臨んでいたが、滑りやすい火山灰で覆われたダートに備えてオフ用タイヤを装着していた。

急峻で、しかも泥に覆われた27kmのコースで数ヶ月にわたるテストの甲斐が実り、YA-1は富士登山レースでの勝利を収めた。優勝したオカダテルオのタイムは、それまでのレースタイムを4分以上上回るものであった。オカダのチームメイトも遜色なく、その他のYA-1も3位、4位、6位、8位、9位という好成績であった。こうしてヤマハの長きにわたる輝かしいレースの歴史が始まったのである。
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をを、ミシュランのに比べると、かなりおもしろいかも。いやはや、SRユーザーの私としては、タンクへのこだわりが設立当初から始まってたってんで、いい気持ちになります。ま、タンクは社外品に変えちゃったんですけどね。

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たまには書き込む

BlogPetの書き込みが続くのはいかがなものかと。
てなわけで、ドイツグランプリについてもっともらしいことでも書いてみましょうか。

というのはですね、ラスト3周となった1コーナー、ジベルノーはかなり無理をしてました。それに対してロッシはスムーズに進入。(イメージとしてはコーナー手前で、ロッシとジベルノーの差がかなりついたのに、クリッピング手前ではロッシが追いついていたと)
これが最終ラップの1コーナーにつながったんでは。
しかしねえ、あの気持ちの弱さは何よ。

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